第33話 ビワイチ・深淵(前)

 大津北警察署の堅田駅前交番は、一階がやや裾の広がった白、二階部分が黒の四角い建物で、石垣に乗る城をイメージして造られた、比較的新しくきれいな造りである。音塚閃太郎は、高校時代にツーリングに夢中になり、滋賀の県警本部に呼ばれたこともあるが、ここは初めてだった。

 猛井四郎らを乗せたハイエースの前に出て、急制動を掛けて追突させたのは、もちろん故意であるが、車の運転手は首が痛いと言って、病院に行ってしまったので、閃太郎だけが、過失運転致傷の容疑者として、取り調べを受けているのである。ネコが飛び出して来たなんていうのは、当然ウソであるが、いくら疑わしくても確認しようのないことについては、警察も厳しく追及しないのは、経験上よく知っていた。

 速度超過など反則歴は何度もある。今回の事故で起訴されることなどないだろうが、二十万程度の罰金は覚悟しなければなるまい。治療代や物損の弁償などの民事責任は保険で何とでもなるが、罰金はローンも利かず、マフラー代の貯金もパーだ。それに反則金とは違い、罰金は前科になってしまう。まあ、一般企業に就職する気などないので、実刑にでもならない限り、どうということはない。バイト先の寿司屋の親方には叱られるだろうが、ネコの命を守るためだったと嘘をつけば、クビにはならないだろう。

 警察の取り調べは、退屈そのものである。刑事が二人一組になって、一人が聴取、もう一人がパソコンに打つ。内容はマニュアルに沿って順に聞いていくだけだ。さすがに人定事項などはごまかせないので、出身地や住所、学歴、職歴、家族構成、前歴などは正直に答える。しかし、交通事故の供述調書で、趣味とか薬物使用の有無などを聞くのはまだ許せるとして、彼女の有無とか女性経験など、何のために尋ねるんだ。ヒマなのか、こいつら。夕方までには終わるんだろうな。尋問に淡々と答えながら、閃太郎は解散してしまったツーリングチームの思い出に浸っていた。

 あいつの旧車カタナより、おれのハヤブサターボの方が絶対速いはずなのに、六甲の下りでも、大阪北港舞洲の周回でも、四三号線の信号グランプリでも、一度も勝てなかった。勝ち気で、わがままで、嘘つきで、思い込みが激しくて、プライドの固まりみたいな、美人で高嶺の花というよりも、本当はチームの誰も寄りつこうとしなかった孤高の紗弥が、あいつを好きになったのは、自分より速い奴しか認めたくないからだろう。紗弥があいつにチキンレースを挑んだ理由は結局教えてくれなかったが、崖から転落してオートバイをやめたと思ったら、いつの間にロードバイクに転向したんだ。というか、紗弥の願い事って、まさかあいつの事じゃないだろうな。

 おれがおっさん達を足止めしたって知ったら、紗弥もあいつも、絶対怒るんだろうな。でも、こうするしか仕方なかったよな。おれって、紗弥のこと、まだ未練あるのかな。あいつに聞いたら、どう言うだろう。もう一度、もう一度だけ、会いたいな・・・

 やっと本日の取り調べが終わり、閃太郎はスマホのお気に入りに残してある、彼のツイッターを開こうとして、小さくため息をつき、スマホをそのままポケットに突っ込んだ。

           *

 シホが、本当はロードレーサーになりたかったという話は、誰にもしたことがない。トラックのバンクでぐるぐる同じ景色ばかり見ているのは、ハムスターの回し車を連想させるので、どうしても嫌だった。ガールズケイリンで一億稼ぐよりも、知らない土地の風を切りながら、どこまでも走りたい。でも、工場の夜間バイトを続けながら、日本の実業団チームで、趣味でもなく、生業ともいえもない転戦を続けるだけの覚悟と才能はなかった。

 中途半端な自分から目をそらすように、実業団チームのマスコットガールという仕事に生き甲斐を見出そうと努めてきたが、本当は海外でプロとしてレースを走るのが夢だった。だから、レーサー志望で、自分より速そうなミドリを無理矢理こっちに引き込んだことに、ずっと後悔を引きずっていた。

 自分たちを置いて一人逃げたミドリを責める気持ちはさらさらない。裏切りなんてとんでもない。一緒に走っても、こっちが足手まといになってしまう。どうか、最後まで走りきって、奇跡と夢を掴んでね。

 あとは、こんな自分に付いてきてくれるメグを何とか笑顔にしてやりたい。でも、それは雨が空から降ってくるように、誰かが勝手に与えてくれるわけがない。まだ弱くて遅いメグだけど、こんなに一生懸命頑張ってくれた。奇跡なんて多分もう無理、完走すら難しい。それでも、まだもうちょっと頑張らないと。だけど、わたし一人じゃ・・・

 途方に暮れていたシホの前に突然、日本のロード好き女子全員の憧れである荻原真理子が現れるなんて。病気療養でシーズン中にイタリアから帰国していると聞いていたけれど。彼女の地元って、群馬県じゃなかったか。なぜこんな所にいるんだろう。これ、一期一会の奇跡っていうやつじゃないか。

「あの、わたしたち、今からビワイチなんですけど、訳があって、どうしても十八時までに一周しないとダメなんです。もう無理ですよね?」

 真理子は、なんだ、そんなことで泣いてるの?と、ほっとしたように笑う。

「わたしもね、ちょっと事情があって、どうしても先行している人に追いつかなきゃいけないわけ。よかったら、曳いてあげるから、一緒に行く?クラブハリエでバウムクーヘン食べるのを諦められるんだったら」

           *

 守山なぎさ公園には、薄紫色の浜昼顔がちらほら咲き、ひまわり畑には気の早い花が遠慮がちに何本か開いている。

 亜弓は、何の警戒もしていなかった斜め後ろから、数ヶ月前まではきょうだいのように仲の良かった丸瀬紗弥が、別れを告げる元気もなくて関西に帰って来てしまった亜弓の横に、三田ループの温泉前で偶然会った紗弥が、何となく気まずくすれ違ってしまった亜弓の横に、いきなり現れて、しかも唐突にブルベに勝たせていただきますなどと宣言するものだから、驚愕のあまり落車しそうになった。

 せっかく、やっと時間をかけて、自分自身の走りきる気持ちを固めたと思ったら、この場合、どんなリアクションをすべきなのだろう。足を回しながら気持ちは真っ白になったままだ。ふと気が付くと、紗弥は少し下がって、大柄な男の人と一緒に走っている。前を行く陽子は、気が付いていないはずはないが、振り向かず、何も言わない。

 全然経緯の想像が付かないが、紗弥がどこかでシークレット・ブルベの事を知り、午前中にアワイチを走り、これからビワイチで一着を狙っているという状況は分かった。紗弥ちゃん、願いって何なのだろう。会社で出会った頃は大型オートバイに夢中だったけど、何かの事故で崖から落ちて、オートバイは降りたって聞いた。その関係かな?去年の夏頃までは、東京に居る彼氏とオートバイでツーリングしてるって嬉しそうに語ってたのに、ある日を境に何も話さなくなった。

 そこまで思い出して、亜弓は背筋に熱いような、冷たいような、ぞぞっとするものが首筋に向けて流れるのを感じ、一瞬息ができなくなった。

「わたし、この道も来たことある。ひまわりも、たくさん咲いてた。それから・・・」

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