第32話 米プラザ(後)

 道の駅びわ湖大橋米プラザ駐車場。トイレから戻って、すぐに走り出そうとする丸瀬紗弥を、美津根崇広は制した。時刻は十二時八分。シークレット・ブルベの参加者らしきワンボックスカーが、今しがた駐車場に入ってきた。あとは、猛井四郎が乗っているらしい車が、オートバイと接触事故を起こして、橋の西側で停まっている。確認できたのはそのくらいだ。

「なあ、丸瀬。今のところ、おれらが先頭、一位だ。もうじき助っ人も合流するだろうし、アワイチより平坦な分、ペースは落ちない。エアロロードが圧倒的に有利だ。ということは、あとはお前さん次第で、その奇跡とやらを掴む権利が手に入る。ところで、高校では陸上、何をやってた?」

 この貴重な時間に何を語ろうとしているのだ。ただ、この先一人でビワイチを走破する自信まではない。いらつく気持ちを押し殺し、手短に答える。

「百メートルと、二百メートル、百メートルハードル、幅跳びです」

「そうか。短距離走は、良好な路面で、カーブのアールも決まってる。ハードルは、全部同じ高さ、同じ間隔だ。幅跳びは、柔らかい砂場に着地するわけだろ」

「・・・」

「そういうのは、ルールですべて決まってる。決められた枠の中で記録とか、点数が出るように努力し、最善を尽くす。それがスポーツってもんだな」

「すみません、ありがたいお話は、ブルベが終わったら、何時間でも聞かせていただきます」

「ブルベはな、コースとゴールが決まっているだけで、細かい決まりがない分、自分が試される。誰も見ていないところで信号を守るかなんてことも含めてな。ロードバイクは、人が作ってくれた道があるだけ、MTBで山ん中を走るよりラクなもんだ。おれ達はまだ甘い枠の中で遊んでるだけなんだよ。そもそも奇跡なんて、神様とか誰かを頼りにしている時点で、もうダメなんじゃないのか?」

 そうか、まだ覚悟が足りなかったんだ。一人でも走りきるだけの覚悟が。「ありがとうございます。ペース配分は、アワイチでだいたい分かったので、後はわたし一人でも大丈夫です。美津根さんは、気が向いたら、付いてきてください」

 そのセリフを言わせた責任は取らねばなるまい。時刻は十二時十二分。女性二人組が駐車場を出るのが確認できる。紗弥の表情に焦りの色が浮かぶ。

「いや、先に行かせろ。後を追いかけた方が、最終的に勝てる。足を使わせればペースも上がって一石二鳥だ」

 穏やかだった美津根の目が勝負師の光を帯びた。この人、本気でわたしを一着にさせようとしている。だったら、迷っていても仕方ない。緊張感と高揚感の違いがよく分からなかったが、鼓動が高まり、アドレナリンが出だしたのを感じる。クリートをバチンとペダルに咬合させ、体重を乗せるだけで、ヴェンジは音もなく加速する。陽子に従う亜弓に追いついたのは、琵琶湖大橋を東へ渡り、湖岸沿いのさざなみ街道に入ってすぐだった。

「亜弓さん、こんにちは。わたし、丸瀬です。今日のブルベ、私が勝たせていただきますんで、よろしくお願いします」

           *

 荻原真理子が米プラザに到着したのは、美津根と紗弥が出発して三十分経過した、十二時四十二分だった。アワイチで約十五分差まで迫っていたが、コースをロストして二十分差に開き、迎えの運転手が気を利かせたつもりで湖西道路から一般道に降りたものの、同様に高速を回避した車で渋滞が発生し。距離が伸びたこともあるし、信号待ちも重なって、さらに十分遅れた。平坦路の多いビワイチで、ここまでの遅れを取り戻すのは並大抵のことではない。ただ、最初から飛ばしすぎると却ってタイムは悪くなる。二百八十ワット位で巡航するしかない。

 道路脇に、ビワイチらしい女子二人組が佇んでいる。小柄な子が泣いていて、金髪の子が何やらなだめている。無視して追い抜けば良いのかも知れないが、そもそも自分の欲望を満たすために走っているのではない、何とかして辛い人の力になりたいと思って走る以上、同じサイクリストとして放ってはおけない。

「どうしたの。メカトラ?それとも、どこか具合悪いの?」

 シホが、いえ、大丈夫ですと言いかけたが、声を掛けてくれた人のマシン、精悍かつセクシーなフォルム、梅雨の晴れ間を湖面に溶かし込んだようなブルーのフレーム。チポッリーニのThe One。日本人女性で、これに乗っている人を他に知らない。まさか・・・

「あの、違ってたら済みません。荻原選手ですか?」

           *

 実業団の女性チームは全国規模ならいくつもある。ミドリの生まれ育った宇都宮では、毎年十月に森林公園でジャパンカップが開催され、ミドリは子どもの頃から、レース観戦に行くのが楽しみだった。全国トップレベルの陣容を誇る地元のチームであるヴェントは、何度も優勝していて、現時点でも宇都宮の選手が個人ランキング一位をキープしている。ミドリはいつか自分も、この晴れ舞台を思い切り走りたいと憧れた。

 高校時代は友だち関係がうまくいかず、半ば引きこもりのゲームオタクになっていたのだが、気晴らしに出かけたサイクルモードで君世と出会ってから、本気でロードバイクと関わるようになったのである。毎年スズカをはじめ、アマチュアレースに個人で参戦し、女子の層が薄いこともあるが、そこそこの成績を残せたので、調子づいていた。

 憧れのヴェントが、女子の自転車競技部を発足させるというので、その選考会に応募したつもりが、どこをどう間違ったのか、レースクィーンの選考会だった。がっかりして帰ろうとしたのを、チームのマネジャーと共に引き止めたのが、シホだった。

「日本で女子の実業団レースに出ても、食べていけないよ。全国規模のウィメンズレースの優勝賞金が十万とかね。女子で速い子はみんな、ガールズケイリンに行ってる。それだったら、一億稼ぐのも夢じゃない。ロードレースは結局、自己満足に過ぎないんだよ。それよりさ、ロードが本当に好きなら、応援したり、盛り上げたり、ファンを掘り起こしたりする仕事の方が、面白いし、やりがいがあるって思わない?」

 最初、この人はマネジャーだと思い込んでいたシホが、自分と一緒に選考会に応募してきた、ロードほぼ初心者だと知り、ミドリは落ち込むと同時に、しばらくマスコットガールの仕事をしながら、この業界の内情を勉強して、選手として活躍できる道を探そうと思った。そして一緒に活動するうち、シホの純粋な情熱に感化され、誇りを持ってエンジェルの活動をしてきた。そのエンジェルが解散する。自分にできること、しなければならないことは何だろう。とりあえず、泣いている場合じゃない。

「シホさん、メグを頼みます。ゴールは必ずわたしが獲ります」

           *

 夏至の日差しがじりじりと照りつける。十二時四十五分現在の順位は、陽子・亜弓~紗弥・美津根~ミドリ・脇本~四郎・庭島~真理子・メグ・シホ。

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