第25話 アワイチ・再会(前)

 淡路島の西海岸には大きな町はなく、コンビニなどの補給箇所は少ないが、なだらかな海岸沿いの平坦路が続き、ハイスピードで駆け抜けるサイクリストが多い。海水浴場が点在し、夕日が美しいサンセットラインである。

 三年前の最速店長選手権で優勝した脇本優は、大阪府の南部出身で、淡路島は子どもの頃から何度も訪れている。天候と体調に問題がなければ、ソロライドでは五時間で回れる。今回は途中、ネコ好きの猛井四郎のせいで、道草を食わされたが、このまま行けば、十時には岩屋に戻れる。ほんま、ライドの途中で食うのは補給食だけにしといてほしいわ。

 脇本のマシンは、派手なモザイクカラーのドマーネ。ラテン語で王冠を意味し、独自のISOスピードを搭載している。サドルから下方に伸びるシートチューブが、フレームのトップチューブから独立分離し、しなることで衝撃を吸収する。さらにハンドルからステムを介してフォークと固定するステアリングコラムも、ヘッドチューブ内で独立しており、路面から前輪を通して腕に伝わる振動も少ない。運動性能を一切犠牲にせずに、ライダーの疲労を低減できることで、レース終盤まで足をためて、勝負所で一気に決める脇本好みのマシンである。

 方や四郎は、脇本と同じアメリカ製、ショッキングピンクのエモンダを操る。エモンダという名はフランス語でそぎ落とすという意味を持つ。一切のギミックを排し、潔いまでにシンプルなその姿は、軽量で機動性にすぐれ、四郎のような、序盤から波状的にアタックを仕掛けてレースの主導権を握る、パンチャータイプの選手に人気がある。

「そろそろバテてきたか?左膝、かばいながら四十キロキープはきついだろ」

 背後から四郎が脇本の前に出た。先頭を曳いてくれるのはありがたいが、なぜ膝のことが分かった?このおっさん、態度がでかくて神経がず太くて大食いで上りがアホみたいに速くて汗くさいだけじゃなくて、ひょっとしてレーサーとしての観察眼が優れているのか。

「このまま岩屋まで行くぞ。穴子丼は、お前んとこの若いもんにテイクアウトさせて、トランジットで食おうや。庭島が追いついて来んかったら、見捨てて車出してしまおうか。自己責任っていうやつだ」

 結構、冷徹やな、このおっさん。パンクも事故も自己責任かよ。自分にも他人にも厳しいタイプや。ネコには甘いけどな。そう思った次の瞬間、脇本の直前を走る四郎が右手の甲を背中の下部に当てた。止まれのハンドサインである。急ブレーキではなかったので、今度は脇本も余裕がある。

 工事だ。プラスチックバリケードが置かれ、警備員が赤い誘導棒を振り、右折して県道六六号線の迂回ルートを指している。時刻は九時五分。実質の工事区間はこの五キロ先地点、わずか百五十メートルだという。自転車を肩に担いでシクロクロスよろしく駆け抜ければ、十時を数分回っても、大した遅れにはならない。ここは直進しかないだろう。お約束のように四郎が警備員に食ってかかる。

「いや、そう言われても、わしらも会社から指示されてるんで。無理に突っ込んで事故とかあったら、わしらの仕事がなくなるんや」

 白髪の目立つ警備員にも、仕事上の義務とか規則とか、家庭を守る責任がある。それは分かる。とても大事なことだ。しかしこっちは、今年の最速店長選手権連覇がかかっているんだ。どっちが大事か、分かってんのか?

 と、四郎が理不尽なクレームを付けようとしたとき、T字路交差点右側から、黄色い軽自動車がやってきて、ハザードランプを点けて停まると、赤ん坊を抱っこ紐でくるんだ女性が出てきた。

「あのー、ひょっとして、シークレット・ブルベの参加者さんですか。あ、あなた、四郎さん?」

           *

 京都で自転車関連の会社を自営する美津根崇広であるが、人とあれこれ折衝するのは苦手である。レースのように、理屈抜きで結果が誰の目にも明らかな、分かりやすい仕事ならば、努力も苦にならないし、たいていは負けない自信もある。

 ハンガーノックで足取りのおぼつかない丸瀬紗弥を連れ、時速四十キロで引っ張るのは容易ではないが、美津根のいかつい上体がもたらす前方投影面積の大きさと、ヴェンジの空力性能を合わせれば、ぴったり後を付いてくる紗弥の負担は、かなり軽減されるのは間違いない。十五分間くらいなら何とかなる。だが、工事の警備員に対して、どう説明する?強行突破は得策ではない。警察でも呼ばれたら、最終的には大した罪にはならんだろうが、職務質問されるタイムロスが痛い。

 警備会社に通報されて、後を追われたり、先で待ち伏せされても同じ事だ。悩んでいるうちに、通行止め迂回区間の南端である、都志交差点に着いてしまった。岩屋まで残り三六キロ。時刻は九時十分。直進できれば、何とか目標タイムの許容範囲だ。ただ、紗弥の息は荒い。あまり無理をさせると、ビワイチでスピードが出せなくなる。

 さて、どうしたものかと思っていると、道路脇に停まっている車から、赤ん坊を抱っこした女性が出てきた。

「あのー、失礼ですが、シークレット・ブルベの参加者さんですか。え、もしかして、美津根さん?」

          *

 何となく士気とペースが低下したまま都志交差点までやってきた、ヴェントエンジェルの現在無職トリオ、シホ、ミドリ、メグ。シホがいるから、多分なんとかなるんじゃないかと楽観している先頭のミドリだったが、時刻は九時十五分、メグのペースも上がらないし、ちょっと厳しい。そこへ、赤ちゃんを抱いたママさんが近寄ってきた。

「もしかして、あなたたちもシークレット・ブルベなの?」

 何と返事をしたものか、シホの顔色をうかがおうとしたミドリだったが、どこかで見たことのある顔だと思っていたら、突然思い出した。

「えーっ、まさか、君世さんですか?」

           *

 大事なことを忘れてるって、何だろう。忘れてるってことは、二通りの意味があるよね。前は覚えてたけれど、今は覚えてないってこと。もう一つは、人に言われたら、ああそうかと理解できるけど、自分一人では気付かないこと。どっちなんだろう。それより、陽子が泣いている顔なんて、多分見たことなかった。何だかわたし、ものすごく悪いことしてるんだ。

 亜弓は、リタイア宣言を取り消し、陽子が口を開こうとするのを強く制して、とりあえず体が動く限りは前に進もうと思い直した。立ち止まっている間に、女の子三人組に抜かれた。股関節が痛くて、スピードが出ない。

 前方の陽子が突然、「え?君世さん!」と叫んで停車した。確かにスカイプで見た顔だ。何でここにいるんだろう。それより、赤ちゃんの顔が見たい。時刻は九時二十分、体力もそうだけど、時間的に、もうダメかもしれない。

「陽ちゃん、よくここまで来たね。あ、わたしも、よくぞここまで来ました。工事の方は何とか話付けといたから。え、知らなかったの?うん、応援っていうか、大事なことを伝え忘れてたの。まさか、今まで手ぶらで走ってきたんじゃないよね」

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