第26話 アワイチ・再会(後)

 シクロクロスとは、未舗装の悪路(オフロード)で行われる自転車競技であり、使用するマシンも、ブレーキをはじめ、ロードバイクとは似て非なるものであるが、冬季のオフシーズンの練習に取り入れているロードの選手も少なくない。ヨーロッパではワールドカップも催されている。通常のレースは、距離ではなく時間制の周回数で競われ、急坂やシケインと呼ばれる障害板、階段などが配置され、自転車を担いで走らねばならない箇所も用意されている。

 脇本優は、一歩足を滑らせれば、自転車ごと海に滑落するという、断崖の際を、ドマーネを右肩に担ぎ、シューズのクリートに泥を詰まらせながら、前を行く猛井四郎を必死で追った。シクロクロスでは、泥まみれにはなるが、海に落ちるようなことはない。まだ陥没舗装路の復旧作業自体は始まっておらず、作業員たちはタバコを吸いながら、脇本たちを物珍しそうに見ている。

 あのママさん、数年前までレースやロングライドイベントによく出てた、サイクルタレントの草分けといえる君世さんや。四郎のおっさんも、最近はテレビとか出て調子こいとるだけあって、有名人やな。腹立つわ。君世さんが何でまた、あの日うちの店に来て、シークレット・ブルベを教えてくれた「秘すとリアル」のサークル会長してるんや?通行止めを通れるように話付けてくれたんはありがたいけど、これから岩屋のなんとか神社に行って、御朱印もらって来なあかんって、なんじゃそりゃ。行くのは別にいいけど、時間がぎりぎりアウトなるんとちゃうか。まじでビワイチ、きついで。きついのはメタボのウエストだけにしといてくれや。

「ほれ、脇本。ここにバケツの水あるから、クリート洗うついでに頭からかぶっとけ。ここと神社参り合わせて、十分はタイムロスや。今からは本気出して飛ばすぞ」

           *

 丸瀬紗弥が「秘すとリアル」の副会長から聞いた話とは微妙にずれている。ただ、君世の言うように、蝦夷の誕生地が淡路島の岩屋にある、岩樟神社内の洞窟ならば、真のスタート地点はそこだという話には説得力がある。でも、それって、アワイチした後でお参りして、はたして大丈夫なんだろうか。

「ごめんね。古事記には、そういうことは書かれてなかったのよ。淡路島の神社やお寺の縁起を調べてて、初めて分かったの。淡路島の七福神巡りにも、すごい謎が隠されてるんだけど、今それを語ってるひまはないわね。とにかく、アワイチで充填した陽の気を、すぐに御朱印に移し込めば大丈夫。両手で挟んで合掌すれば移るから。これで、最初から御朱印と共にアワイチしたのと、ほぼ同じ御利益があるはず」

 御朱印をもらってからスタートしようにも、時間的に神社は開門していないし、御朱印がアワイチとビワイチで練った陰陽の気を封じておけるのは、当日の日中だけなので、前日にお参りしてもダメなのだという。

 この人、もともとはすごく頭良いんだろうけど、ほぼ同じはずって、言ってること、結構適当じゃね? 一瞬、紗弥の脳裏に疑問が浮かんだが、わざわざ八王子からどうやって来たのか、このシークレット・ブルベの参加者全員に、そのことを伝えに、赤ちゃん連れてまで来てくれた。工事の通行止めも、通れるように計らってくれたということは、やっぱり誠実な人なんだろう、信じるしかないよね、と自分に言い聞かせた。美津根は君世とは結構長い付き合いらしい。

「これってさあ、車に戻る前に直接行った方がいいよな。おれ、今あんまり金持ってないんだ。御朱印帳代と初穂料、すまんが貸してくれ。今度競輪で当てたら、たっぷり返すからさ」

           *

 メグが道路脇にしゃがみ込んで、太ももが攣った、もう無理と騒いでいる。意外と面倒見の良いシホは、チームのマッサーから習った慣れた手つきで、メグにマッサージをしてやる。ミドリは一人、君世に会えて嬉しそうである。

「もう三年前になるのかな。サイクルモードで、君世さん、女性限定で館内ツアーの引率してたじゃないですか。わたし、あの時いたんですよ。素敵だなあって思って。当時、ほとんど引きこもりのゲームオタクだったんですけど、君世さんの姿見て、これからは自転車に乗ろうと思って、前向きになれたんです」

 シホは君世のことは知ってはいるが、会うのは初めてだった。ヴェントエンジェルなどの自転車レースクィーンが活動できたのも、元はといえば君世がこの分野で活躍してくれたおかげである。恩人に違いない。しかし、結婚してサイクルイベントから遠のいたと思っていたが、まさか歴史研究をしていたなんて。

「でも、なんでわたし達にまで、そのことを教えてくれるんですか?君世さんは今日、お友達にだけ伝えに来たんじゃないんですか」

「わたしもネットの掲示板は見たのよ。書き込んだ人が誰か、見当は付いているんだけど、話を盛ってるっていうか、あんまり煽るような表現は良くないよね。ネットなんてどんな人が見てるかわからないし。

 ただ、このシークレット・ブルベに本気で出る人には、全員にちゃんと教えてあげなきゃって思ったの。もちろん、わたしの友だちには一着になってほしいけど、それは結局、力を解放されたがっている蝦夷自身が選ぶんじゃないかな」

          *

 亜弓が君世と会うのは無論初めてであるが、いきなり彼女がハグしてきたのには驚いた。なぜか君世が涙ぐんでいる。

「あなた、陽ちゃんの妹さんね。大きくなったねえ」

 いや、大きいのは陽子の方です、と言いかけたが、

「高校時代ね、陽ちゃんがあなたを保育園に送迎してたでしょ。わたし、たまに見かけたのよ。仲良さそうで、いいなあって。あなたのお母さんにも会ったことがあるの。陽ちゃんよりあなたの方が、お母さん似だね」

 感傷に浸っている時間はない。君世は、陽子と亜弓の自転車をちらと見やると、うんうんと頷きながら、陽子の方を振り返った。

「三人じゃなかったの?」

「それが、ケガで急に走れなくなっちゃって。でも、大丈夫。ちゃんと持ってるから」

 君世の見解では、十九時十六分の日没までに西宮神社に着いて、練られた陰陽の気を奉納しなければならないが、最大三着までにゴールした者だけに、蝦夷の力を覚醒させるエネルギーが蓄積されているはずだという。君世は、研究者として、明らかな事実は隠さず共有すべきというのが基本的な姿勢であるが、岩樟神社の御朱印だけでは、気のパワーを完全に蓄えられないのではないかと、内心危惧していた。そこまでは、陽子以外には話していない。

(うーん、三人じゃないのか。でも、三つあれば、それでいいのかな?)

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