第24話 アワイチ・誤算(後)
四年に一度開催される、世界最高のブルベイベント、パリ~ブレスト~パリ千二百キロ。二四時間以上を寝ずに走っていると、疲れと睡魔から幻覚や幻聴が生じる。幻覚だと自覚できるものもあれば、後から思い出しても現実かどうか不明なものもある。日本ではブルベの神とまで言われている美津根崇広の場合は、沿道の老人が「家を買うならアンテナ付きにしな」と話しかけてきたり、もっと疲れてくると、ここが何処か、自分が誰かがわからなくなって、自問自答を繰り返した。
だから、目の前を走る丸瀬紗弥が、がくんと上体が前のめりになって、そのまま道路脇に広がる畑の畦道に落車した姿を目の当たりにしても、驚きはしなかった。やはり昨夜一睡もできなかったか。頭は打たなかったようだし、あの脱力した倒れ具合なら、大したケガはないだろう。雑草がクッションになって、ヴェンジの薄いフレームも内部は多分大丈夫だ。ただ、さっき道の駅うずしおで、ちゃんと補給食を食べさせておくべきだった。
高校時代は短距離走に打ち込んでいた紗弥は、ハンガーノックになったことはなかった。一時的な低血糖症で、手足に力が入らなくなり、意識がもうろうとし、幻覚を生じる場合もある。宗教の過酷な修行などで起こりうる神秘体験の中には、ハンガーノックによる幻覚が含まれているかもしれない。
ハンガーノックを起こす前に空腹感を覚えるとは限らない。通常は、明瞭な意識とはうらはらに足に力が入らなくなり、そのまま車道に倒れてしまう場合もある。美津根も不本意ながら、何度も経験がある。
疲れてくると、まず固形物が喉を通らなくなる。そこでエナジージェルなど、咀嚼しなくていいものを吸うようになるが、次第に液体すら飲み込むのが億劫になる。足はまだ回ると脳が錯覚するので、意識する運動イメージに体がついていけなくなって、倒れてしまうのである。
脳の栄養は糖分だけなので、血糖値が下がると誰でも眠くなる。寝不足及び身体的な疲れと相乗して、走行中でも眠気を我慢できなくなり、意識が飛んでしまうのである。
「お、起きたか。まだもうちょっと寝てても大丈夫だぞ。痛いところはないか?手がしびれたり、震えがきてないか?」
「え、わたし、意識なくなって落車したんですね。さっきから、すごく眠くって、もっと飛ばせば眠気も覚めると思ったんですけど。体は大丈夫です。ヴェンジは?」
ハンガーノック時に、急激に糖分を補給しようとしてはいけない。体内で急激に上昇した血糖値を下げようとして、インシュリンが過度に分泌され、逆に低血糖状態がひどくなる、血糖値スパイクが生じるおそれがある。体がだるくなり、吐き気がしたり、下手をすれば意識を失う、まずはすぐに吸収されるブドウ糖、続いて緩やかに吸収されるマルトデキストリンを水分と共に少しずつ補給しなければならない。
サンセットラインに入り、あとは海岸沿いを北上すればよい。時間的にはある程度余裕がある。スマホで現在位置と道路状況を確認していた美津根は、想定外の事態が今から起きることを知った。
「都志~群家間、九時から十七時、災害復旧工事のため、通行止めだと?まずいな、あと十五分で十キロ走れるか」
*
道の駅うずしおで、シホは満面に笑みを湛え、紙でくるんだハンバーガー三つを手にして戻ってきた。時刻は九時前、まだレストハウスも開店していないが、元ヤン時代に培った、脅しと哀願と懐柔を巧みに組み合わせた対外交渉術を駆使した成果である。メグはグランプリ優勝作であるオニオンビーフバーガーを手にし、海鮮好きのミドリは、淡路島名物の三年とらふぐをカツにしたバーガーをほおばった。シホは二百五十グラムのステーキを挟んだものにかぶりついている。ちょっと味見させて、と脇から顔を近づけながら、メグは満足そうである。
「でも、アワイチなんて、みんなよくやるよねー。わたしも自分で自分を褒めたいよ」
ミドリは左手でハンバーガーを食べながら、スマホを手放さない。何やらアワイチで検索している。
「へえー、世の中には物好きというか、すごい人がいるよ。六十歳の還暦記念に、アワサン走った、サイクルショップの店長さん。ほら、自分でブログに書いてる」
アワサンとは淡路島三周、四百五十キロである。アワニやビワニの三百キロを一気に走る者は時々いるが、三周になると、よほどの体力や技量、それに強い意志がないと完走できない。
「ええーっ、こっちの店長さんは、やっぱり還暦記念ライドなんだけど、アワヨンだって。六百キロなんて、歳もアレだし、信じられないよね」
「じゃあ、アワヨンの人の方がすごいってこと?」
オニオンビーフバーガーを平らげたメグは、ミドリのとらふぐカツの味見を狙っている。
「うーん、二人とも三十時間なんだけど、アワサンの店長さんは基本的にソロライドで、アワヨンの店長さんは仲間のサポートが厚かったみたい。途中のエイドとか、マッサージとか。ま、どっちも鉄人だよね。真似するのなんて絶対無理だけど、一度会ってみたいな。宝塚とか明石にお店がある」
そろそろ出発しようと腰を上げた時、スマホの画面に吸い込まれるように、ミドリが眉間にしわを寄せた。
「まずいよ、シホさん。島の北東部、工事で通行止めになるって。今からじゃ、いくら急いでも工事開始前には間に合わない」
*
陽子は自転車から降り、亜弓の目を見つめた。怒られるのを覚悟した亜弓だが、陽子は穏やかな表情である。
「ごめんね。わたしが無理に誘ったから。こわかったんだよね。ケガがなくて本当に良かった。じゃ、ハチケンに連絡して、ここまで迎えに来てもらおう。わたしはこのまま走るよ。だって、どうしても願い事を叶えたいから」
亜弓は、罪悪感や後悔に似た感情が押し寄せてきて、言葉が出ない。でも、これ以上一緒に走っても、陽子の足を引っ張るだけ。わたしがいない方が、陽子の願いが叶う可能性が高い。そう思いたかった。
「でもね、亜弓。これは言わない方が良いのかも知れないんだけど・・・」
「あーっ、じゃあ言わないで、お願い。ごめん、本当にごめんなさい」
沈黙に包まれた二人の横を、「その程度か、もっと踏め!」と、何やら後ろの中年男性が怒鳴りながら、二人組がものすごい速度ですっ飛んで行った。岩屋で早々に抜かされ、洲本でネコと遊んでいるのをこちらが抜き返し、さっき道の駅うずしおでもすれ違った。確か三人いたはずだが、仲間割れでもしたのだろうか。
気まずさから地面に目を落としていた亜弓が、ゆっくり顔を上げると、陽子の両目から涙がこぼれていた。
「亜弓、あなたね・・・とっても大事なことを忘れてるんだよ。このまま元気でいられるなら、忘れたままの方がいいかもしれないね」
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