第22話 アワイチ・疾走(後)

 洲本港は、市役所のすぐ近くだが、五目釣りの穴場であり、大潮の日の早朝など、防波堤から、冷凍オキアミのサビキ仕掛けでアジ、サバ、イワシ、カワハギ、サンバソウ(石鯛の稚魚)、グレ(メジナ)、メバル、ショウサイフグなどが、初心者でもそこそこ釣れる。この日も家族連れを含めて、十数人が竿を出している。その洲本川の河口で、いい年をした男三人が険悪な雰囲気で大声を出している。

「いや、この場合、ぼくが一位ですよね。最初に決めたように、ゴールラインが橋のたもとやったら、あそこで四郎さんが急ブレーキ掛けた瞬間にぼくが抜いてますやん。庭島さん、ちゃんと見てくれてましたよね?」

 童顔の脇本優が顔から湯気が出そうな勢いで、ムキになっている。かたや、最速野獣そば職人という、意味不明な肩書きを自称する、猛井四郎も大人げなく反論する。

「何を言ってるんだよ。このネコが急に飛び出して来たんだよ。右に避けたらお前の方にぶつかってただろ。急ブレーキ掛けるしかないだろ。ネコの命とお前と、どっちが大切か、分かってんのか?」

 この場合、庭島栄司がオトナの役を引き受けるしかない。べージュの毛がふわふわで、垂れ耳、短足の愛らしい、マンチカンの仔猫である。人慣れしているのだろう、庭島が首の後ろをマッサージするようになでてやると、地面に寝そべっておとなしくしている。これなら、抱っこしても大丈夫だろう。

「いや、四郎さん。レースだったら、動物は動く障害物に過ぎません。結論的には脇本くんがゴールをさしたことになりますね。ただ、この子を放っておくわけにはいきませんから・・・」

「そうだろ。ちゃんと首輪してるのを見てブレーキ掛けたんだよ。不可抗力って言うんだろ、この場合。ノラだったら轢いてもいいってことにはならんけど、飼い主に後で文句言われるのも嫌だしな」

 脇本は、それ見たことかと、ドヤ顔になる。

「ほな、早よ行きましょうや。こんなとこで道草食ってる場合やないでしょ」

「何を言うてるんじゃ。この子を警察に届けなあかんやろうが。迷子やぞ、自分でうちに帰れんようなってる、子どもと一緒なんやぞ」

 庭島は、堤防の釣り客らに目をやったが、ネコを探している様子の人は見当たらない。近所の飼い猫としたら、すぐには飼い主を捜せない。洲本警察署は、この先すぐの所にある。四郎が、さっきおにぎりや羊羹を入れていたサコッシュを、背中のポケットから出して、脇本に差し出す。脇本は一瞬固まったが、しぶしぶ受け取った。既に何人かのサイクリストが追い抜いて行った。脇本が警察署に行って戻るまで、ここは置き去りにはできない。ロスタイムは十五分くらいになるだろうか。まあ、どうということはない。

 脇本は、こいつは人の言うことを聞く奴だと思わせておくのが心理的に得策かと算段した。そうすれば、いざという時に油断してくれるに違いない。四郎に朝飯をおごらせようにも、コンビニ以外どこも開いていない。

「はいはい、ぼくが一番年下ですからね。パシリは引き受けますよ、喜んでー。しかしこのネコ野郎、わざわざ飛び出してこんでも、そのままねころがってたら良かったのに」

           *

「え、亜弓さんが完走できないって、どういうことですか」

 音塚閃太郎の視力は二.〇以上ある。先ほど駐車場の彼方からこちらを見ていた女性、マスク姿で顔は見えないが、黒地に赤い稲妻柄のジャージ、あれは閃太郎がかつて加入していた、オートバイのツーリンググループのオリジナルジャケットと同じデザインである。それを着こなす、あの細身で長身のシルエット、丸瀬紗弥しかいない。紗弥は陽子さんか亜弓さんと知り合いなんだろうか。だとしたら、なぜ話しかけに来なかったのか。一瞬混乱した閃太郎は、反射的に車の中に身を潜めてしまった。多分、おれには気づいていないはず。

「股関節だよ。ペダルに体重を預けようとするあまり、上体が揺れすぎてる。あれじゃあ、全身をムチのように使って、加速をつなげていくキネティックチェーンが、股関節の硬さで途切れてしまう。腸腰筋が縮こまってるんだ。だから、足、特に左足だな。ハムストリングスから臀筋にかけて、百キロを超えた辺りから、疲労で痛みが生じる。そのまま無理すれば、足が動かなくなる。パワーアップに意識が向きすぎてて、そっちがおろそかになった。さっき、亜弓ちゃんの後ろ姿を見て、初めて気づいたんだよ」

           *

 県道二八号から七六号に入り、立川水仙峡に至る上りは、初めて訪れる者を不安にさせる。どこにも海が見えない急坂が続く。謎のパラダイスという謎の看板があるが、誰も人影がない。亜弓は時々立ちこぎをしながら、何とか陽子について行くが、うまく左右に車体を振るリズムを作れず、陽子に置いて行かれる。ハンドルが自分の弱い心のようにぐらぐら振れる。

 水仙の時期でもないので、ぐねぐね曲がる、先の見えない坂しかない。一度下りたと思ったら、また上りになる。百五十メートルくらいの短い坂があるよと、陽子は簡単そうに言っていたが、自転車乗りは嘘つきばかりだ。文句を言っても誰も背中を押してはくれない。重いボトルを捨てたくなるが、モンキーセンターまでは自販機もない。上っている最中は片手でドリンクを口にする余裕すらない。汗が目に入って痛い。酸素が足りない。肺が痛い。心臓がばくばくする。もう、足を着いて、自転車を降りたい。三百キロなんて、絶対無理だ。陽子の背中を探して苦闘しているうちに、やっと一つめの峠にたどり着いた。陽子が涼しい顔で待っている。

「はい、お疲れ。これが四つの峠の一つ目なんだけど、あとの三つは、これより緩いから、大丈夫。福良まで行ったらちょっと休憩しよう。何でもおごってあげるから」

 ここまで来たら、もう最後まで走るしかない。いや、でも、最後まで走れないかもしれないが、その時は陽子とハチケンさんに謝ろう。だって、誰かのためでも自分のためでも、別に神様を頼らなくちゃいけないような願い事なんて本当にないし、坂ではぁはぁ苦しむことで、脳内快楽物質が出るような人間じゃない、わたしは。海岸沿いをゆったりとポタリングするだけなら、どれだけ楽しいだろう。でも、一生懸命な陽子の姿には、惹きつけられるものがある。

 考えてみれば、わたしはまだ、陽子の内面をあまり知らない。このブルベを一緒に完走できたら、本当のきょうだいに近づけるかな。汗を拭いて、ドリンクを飲みながら、風に吹かれていると、さっきの苦しさはもう過ぎ去った過去だ。体調自体は悪くない。まだ走れる。

「気休めの嘘は、もういいよ。福良に着いてもお店なんか開いてる時間じゃないでしょ。エネもちか、スポーツようかん食べたら、次に行こう」

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