第20話 夏至の夜明け(後)
ヴェントエンジェルの新リーダーであるシホは困っていた。新入りメンバー、メグのマシンの調子が悪いのである。チェレステカラー(イタリア語で空色)のオルトレは、プロチームも愛用するエアロ仕様の万能機である。カーボンフレームのごく薄い積層間に、カウンターヴェイルという、振動除去膜を挟み込み、舗装路では魔法の絨毯のごとく滑るように走る。
そのディスクブレーキのローターがわずかに歪み、ローターをはさみつけるパッドに擦れて、しゅーしゅーと音がする。走って走れなくはないが、ロングライドでは、このようなささいな物理抵抗が命取りになる。いつもはチームのメカニックに整備を任せきりにしているツケが、この肝心な時に出た。
「参ったな。夜行バスで移動中に、どこかぶつけたかな。昨日、レンタカーに積み込むまでに、一度組み立てて調子見ておくんだった」
三人とも、油圧ディスクブレーキを搭載するマシンに乗っている。新型のロードバイクはほとんどディスクブレーキモデルを揃える。しかし、プロ選手の評判は必ずしも良くなく、メーカーやメディアの思惑ほどに普及しない。
ディスクブレーキは効きが良いと、一般には広く誤解されている。制動距離はタイヤと路面の摩擦で決定されるため、ブレーキの種類には何の関連性もない。ただ、雨天時には、リムブレーキの場合、シューとリムの摩擦抵抗が極端に落ちるため、ホイールの回転速度を落とすには、ディスクブレーキが優れているというだけである。
落車時には高熱を帯びた回転ノコギリになるディスクローターを危険視する向きもあるが、それ以上に、リムブレーキより単純に重いことと、ハブ周りの剛性を高めるために採用されるスルーアクスル機能が、旧来のクイックレリーズに比べて、ホイール交換に手間取るというのが、一刻を争うプロレースで敬遠される大きな理由である。ただ、油圧ディスクは、ブレーキレバーを握る力が小さくて済むために、握力の弱い女性にはメリットがある。
「どうしたの?見てあげようか」
シホが振り向くと、浅葱色の陣羽織のようなサイクルジャージに身を包み、広い肩幅に引き締まった体躯の、三十代の浅黒い男性が、気さくな感じで立っている。地獄に仏とばかり、お願いします!と九十度に体を折ると、男性はプライヤーとアーレンキーを持ってきて、ブレーキパッドのクリアランスと、ワイヤーの伸びを調整してくれた。わずか二、三分の手際の良さだった。
「本当にどうも、ありがとうございました。これからアワイチですか?」
シホが隣でぼんやり立っているメグの頭を押さえつけながら礼を述べる。
「ああ、実はその後もあるんだけどね。皆さんも気をつけて回ってね」
庭島栄司は、ここで待っているという猛井四郎を、ライト片手に捜し回っていたのだが、まさかこの華やかな女子グループと、その日の昼に琵琶湖畔で再会することになるとは、思い及ぶところではなかった。
「あー、良かった。これで無事にスタートできるね。じゃ、いつものように、わたしが真ん中でいい?」
十八歳になったばかりのメグは、シホから見ても何を考えているか分からず、イライラさせられることが多い。ただ今日は、彼女をお荷物にさせてはいけない。こまめに先頭交代して体力をセーブし、協力して走らなくては、シホもミドリも、未踏の三百キロを走りきれない。
「メグ、今日はあなたが頼りだから。サイクルピクニックのイベントで走った四倍の距離だけど、今のわたしたちの力を出し切ろう。メグがアイドルになりたいとか、ミドリが実業団チームで活躍したいとか、あるいは彼氏のこととか、自分の願いごとのためで構わない。わたしも全力で二人を助けるから、二人もわたしを助けてね」
*
荻原真理子は、友人に送ってもらった車に寄りかかるように、呆然としていた。道の駅あわじに着いた途端、美津根のチームの若い子が駆け寄ってきて、美津根は三十分くらい前に、もう一人の女の子を連れてスタートしたことを聞いた。それくらいなら、アワイチが終わるまでには何とか追いつける。さあ、とりあえず洲本まで飛ばすか、と出発しようとした時。
フロントの変速機がインナーに落ちないのである。自転車の変速機を発明したのはイタリアのカンパニョーロであるが、今や、日本製のシマノ、そのフラッグシップである電動のデュラエースは、ヨーロッパのプロチームで最大のシェアを誇るコンポになっている。その理由は言うまでもなく性能、特に、プロ選手のシビアな使用に堪えうる信頼性である。
電動の変速機は、シフトの速さだけでなく、周囲を走っているライバルに気づかれないほどの軽いタッチと静かさ、何よりもワイヤー伸びがなく、振動や熱、雨や泥にも強いため、今やほぼすべてのプロは電動シフトを使っている。その電気系統が故障するなんてことは通常あり得ない。さっきの交通事故の衝撃が、ここに来ていたのか。これはメカニックでないと対処できない。美津根のチームの若い子が遠慮がちに声を掛ける。
「あのー、美津根さんのスペアバイクなら、車に積んでるんですけど、どうしましょう?」
「いや、いいわ。美津根さん、一七八センチでしょ、わたしより十センチ高い。サドル下げたところでフレームのジオメトリーが違うし、わたし本来の走りはできないから、このまま行くわ」
真理子のフロントギヤは、アウターが五十T、インナーが三四Tのコンパクトクランクにしてある。インナーが使えないと言うことは、坂を五十Tのアウターのみで上らねばならない。でも、数十年前のプロは、インナー四六Tでアルプス、ピレネーの急峻な山を上っていた。百年前なら、変速機自体が発明されておらず、プロは安価なママチャリと同じくシングルスピードの自転車で、ヨーロッパの山脈を越え、何千キロにも及ぶ過酷なレースを走り抜いたのである。リヤの十一段が無事に使えるだけでもありがたい。タイムロスと合わせて相当なハンディだが、それくらいないと、無難に勝ったところで、思い出にさえならない。アウター縛り、上等じゃない。
真理子は、神戸三宮でパトカーに乗せられる直前、事故の被害者が救急車に運び込まれる様子を、一瞬だけ目にした。学生さんだろうか、まだ若い男の子だった。その彼女かもしれないが、女の子が泣きながら一緒に救急車に乗り込んだ。あれからどうなったろう。あの人たちに、わたしができること、何かあるだろうか。
「よし、決めた。わたし自身の病気は自分で治す。このブルベで一着になって、あの子のケガが無事に治りますように、願い事はそれで行こう。人の幸せを祈れる人が、結局は一番幸せになれるから」
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