第19話 夏至の夜明け(前)

 メビウスの輪にセンターラインを引いて切ってみると、二つの輪にはならず、大きな一つの輪ができる。また、二本の平行線を引いて切ってみれば、三つの輪にはならず、大きな輪と小さな輪が一つずつ、鎖のようにかみ合ったものが出来る。裏と表がつながる一本の輪、メビウス・ロードを一緒に走っても、同じゴールには至らない。

           *

 紗弥は、目から下半分の顔がまるまる隠れる、濃紺のスポーツマスクをして、道の駅あわじの広大な駐車場に散在するローディーたちを見回していた。ヘルメットにアイウェアも着けているので、顔は一切分からない。このままコンビニに入ったら通報されそうないでたちであるが、実は亜弓がいないか、こっそり探していたのである。しかし思いのほか人数が多い。釣り人らしきグループもいるが、ロードバイクにトライアスロンバイクが二十台ほど数えられた。もし大津の琵琶湖大橋で同じ人がいれば、それは競走相手と見なすべきであろう。

「いた。やっぱり、あの時の大柄な女の人と一緒だ。どこかで聞いたんだな、メビウス・ロードのこと。亜弓さんの願い事、それはわたしが、わたしの願いとして叶えますからね」

 道の駅の北側には、海と本州をつなぐ大橋が間近に見える。先ほど高速を降りた淡路インターにある大観覧車が、南の空にそびえている。美津根のチームの若い子が、時計とにらめっこしながら、日の出の時刻を待つ。日の出と同時に、駐車場でスタンバイしている美津根にスマホで報せるためである。

「よくそんな月光仮面みたいな格好で走るな。日焼けなんて気にしている場合じゃないだろう。暑くなって息ができんぞ」

 美津根は、少々呆れたように忠告する。紗弥は適当にウソの返事をする。

「いえ、今だけです。低酸素状態でスタートした方が、持久走は速くゴールできるって、陸上部の監督が言ってましたから」

 紗弥の、薄い翼断面のカーボンハンドルには、高速巡航のためにエアロバーを取り付けた。既に心臓は高鳴り、心拍計は百三十を越えた。マスクからもれる息で、停まっているとアイウェアが曇る。

 先ほどようやく、交通事故で足止めをくらった荻原真理子から、すぐに追いつくと連絡が入り、二人で先行することになった。美津根は真理子の速さに全幅の信頼を置いている。四時四六分になった。

「そんじゃあ行きますか、レッツラゴー」

           *

 陽子は、自分と亜弓のヘルメットの両側部に面ファスナーを貼り、自転車用のインカムを取り付けた。左側の本体からワイヤーが伸びており、口元にマイクがくるよう調整する。

「これで走行中も常時通話ができるわ。ブルートゥースで直接つなげてるから、スマホを中継するタイプのより、バッテリーが持つのよ。ちょっと雑音入るけど、普通にしゃべる分には大丈夫。二百メートルくらい離れると、接続が切れちゃうから、離れずについてきてね」

 近畿地方は六月の上旬に梅雨入りしたが、それほどまとまった雨は降らないままである。今日の天気は、曇り時々晴れ、所により一時雨となっている。朝焼けに明石大橋が染まり、空は既に明るい。

 陽子は今日に備えてタイヤを替えてきた。世界で唯一、ライスブラン(米の籾殻)を練り込んだ、チューブレスタイヤである。自動車やオートバイなら当たり前のチューブレスであるが、ロードバイクでシェアは一割ほどである。乗り心地がソフトで、路面抵抗が少なく、パンクに強い一方で、エア漏れを防ぐシーラント作業が面倒なのと、タイヤの脱着が女子の力では難しい。この国産タイヤは、路面の水分を籾殻に吸着させることで、ウエット時には文字通り吸い付くようなグリップを見せる。普段は脳天気の割に、本番時のリスクに対しては周到に備えるという、陽子の性格が表れている。

 下りやカーブのこわい亜弓は、ママチャリと構造的には同じ、一般的なクリンチャータイヤ(チューブがタイヤの中で独立している)のうち、飛び抜けたグリップを誇る、イタリア製のものを選んだ。グラフェンという、鉄の二百倍の硬度と、原子一個分の薄さを有する特殊素材を配合し、平坦路では滑るように軽く転がり、コーナーや下りでは一転して路面に咬みつくような強烈なグリップを見せる。

 プロレーサーは、チューブをタイヤで包み、糸でタイヤの縁を縫い込んでドーナツ状にした、チューブラータイヤをほぼ全員が使う。リムにタイヤを、接着剤や両面テープで直接貼り付ける。高速安定性や乗り心地に優れるが、パンクしてもサポートカーが直ちにスペアホイールに交換してはくれない一般サイクリストは、スペアタイヤを携行するのがかさばるので、チューブラーを選択する者は、チューブレスと同じく一割程度である。

 ハチケンと閃太郎が背後から見守る中、耳の上のスピーカー越しに陽子の声が響く。

「じゃ、行くよ。とりあえずは洲本、炬口北交差点の先の橋。距離三十三キロ、目標五時五十分!」

          *

 脇本優はびっくりした。最速店長選手権のディフェンディングチャンプである猛井四郎は、自分で道の駅あわじに行くから、先に待ってると連絡はしてきた。てっきり、車に自転車を積んで来ていると思ったら、まさか名古屋から自走でくるとは。駐車場に見当たらず、電話にも出ないので辺りを探してみると、地面に自転車を倒したまま、道の駅の海鮮焼きテイクアウトコーナーにある白の金属椅子を十脚、二列に並べ、その上で大いびきをかいていたのである。

「この人の神経、そば職人には向いてないわ、きしめん並のず太さや」

 起き抜けにサコッシュからおにぎりと羊羹を取り出し、おもむろに食べ始めた四郎をみて、レース経験では百戦錬磨の脇本も、さすがに毒気を抜かれた。これは一種の才能やな。トレーニングして勝てるもんとちゃう。だったら、もっと作戦練ったる。と思った途端、

「よし、もう日が昇ったな。ほんじゃ、お先に~」

 一年ぶりの再会のあいさつも何もないまま、いきなり単独でスタートした四郎を、庭島が慌てて追う。

「ちょっと待ってくださいよ、四郎さん。途中までは一緒に行きましょう」

 まったく息を荒げることもなく背後に付いた庭島のスプリント力に、四郎は内心舌を巻いた。

「お前らが付いてこれたら、風よけでも何でもなったるわ。脇本に言っとけ。仲良しごっこしてるようじゃ、今年も勝てんぞってな」

 振り返ると、脇本も射程距離圏で後続している。にやっと口角を上げた四郎は、余裕の口ぶりで提案した。洲本まで四十五分くらいか。

「じゃあ、オープニングのTT(タイムトライアル)やろか。洲本の、どこやったっけ、川渡る橋のところ。負けたやつが朝飯おごれよ。じゃ、次のフェリー乗り場の信号が青になったら、ほんまのスタートな」

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