第18話 一番長い日(後)

 名古屋駅前から木曽川を渡り、国道四二一号線を近江八幡に向かう。途中、三重県と滋賀県の境に、標高三百メートルの石榑峠があるが、ヒルクライムと呼べるほどの代物ではない。ようやく長い日が落ち、永源寺ダムからの長い下りは、千七百ルーメンのヘッドライトに頼るナイトランになるが、猛井四郎は久しぶりのロングライドを満喫していた。脇本店長からは、大津まで来てくれれば、あとは車で一緒に行きましょうと言われたが、信楽タヌキと一緒に車には乗りたくない。明石港まではたったの二百二十キロである。ここは自走に限る。ブルベ前の足慣らしには丁度良い。

「あー、腹減った。どっかで炭水化物補給しよう。鮒寿司って、臭いっていうけど、確か匂いの成分量は納豆と変わらないんだよね。発酵食は消化も良いし、魚のアミノ酸でスタミナ付きそう。どんぶりで食える店ないかな」

 結局、いつものように、コンビニで買ったあんパンを掌でつぶして折りたたみ、左手でかじりながら、ポカリスエットにさらにポカリの粉末を溶かしたドリンクを、走りながら右手にボトルをつかんで流し込む。外見だけでは分からない、四郎の強靱な、あるいは鈍感な内臓が、彼のアグレッシブな走りを支えている。繊細なそば職人の面影は、サドルにまたがった途端に消える。

 琵琶湖大橋を渡り、京都から国道一七一号線を下るが、信号が多く、夜間でも交通量が減らない。細かい加減速を強いられるが、羽のように軽い愛車エモンダは、平坦路でも身体の細かい挙動に忠実に追従し、疲れを感じさせない。ヒルクライム用として人気だが、ナーバスな癖が無く扱いやすいため、オールラウンドで使うプロも多い。

 西宮市から国道二号線に入り、ひたすら西進する。神戸を過ぎ、須磨海岸の辺りからは、快適な海岸沿いのルートとなる。明石港から淡路島岩屋を十三分で結ぶ連絡船は、始発が五時四十分なので、予定通り二三時四十分発の最終便に乗る。道の駅のベンチなどに転がれば、四時間は寝られる。まあ、アワイチ程度なら寝ながらでも走れる。そう思った途端、目の前に庭島栄司の顔があった。え?いつの間に寝てたのか。

「四郎さん、起きてください。もうすぐ日が昇りますよ」

          *

 宇都宮からの直通夜行バスはなく、池袋から神戸三宮に朝方着いた、ヴェントエンジェルの新リーダーであるシホは、せっかくだから神戸観光したいと甘える新入りのメグをにらみつけ、一泊二日でワンボックスカーをレンタルした。確かに日中は時間があるので、炭水化物中心の食事でカーボローディングを行い、近場の温泉でも入って身体をケアすればよい。ノントラブルで走りきるために、マシンの最終チェックは念入りにしておこう。

 しかし、初心者のメグはともかく、平坦路は一番速いエースのミドリが、今まで一度も輪行したことがないというのには呆れた。おかげで分解と組み立て時間を二倍取られる。日が暮れたら淡路島に渡り、道の駅の駐車場で車中泊すればいい。しかし、神戸名物の炭水化物料理って何だろう。中華街があるから、ラーメンと餃子でもいいけど。宇都宮の人だからって、別に餃子ばかり食べているわけではないが。そんなことを考えていると、スマホで何やら検索していたメグが、嬉しそうに顔を上げた。

「へえー、淡路島って、生シラス丼が名物なんだって。あと、淡路牛バーガーとか。食べられるお店は結構あるみたい。おお、たこせんべいの里っていうのもあるよ。途中のエイドには困らないね。わたし、淡路島に住もうかな」

           *

 荻原真理子は焦っていた。神戸三宮に住む友人宅におじゃまして、六月二一日の夜に車で淡路島に渡り、美津根と合流するつもりだった。まさか、市バスが信号無視して交差点に突っ込んでくるなど、さすがに予想できない。

 友人に過失はないはずである。自分たちは巻き込まれた被害者に過ぎないと確信しているが、任意同行を求められた署の交通課では、参考人として真理子も取り調べを受けることになった。友人とは別々の取調室に入れられ、顔を見ることさえ許されない。マスコミの記者が来ているのか、外がざわついている。詳しく教えてくれないが、重大な人身事故になったらしい。

 ブルベが済んだら一緒に飲もうと買ったワインが、事故の衝撃で割れ、車内に飛び散ってしまった。ケガは軽い打撲程度で、病院に駆け込むほどではない。車とワインの弁償は当然してもらわないといけないが、自転車は無事なんだろうか。友人が飲酒運転していなかった事実を疎明しなければ、ここから帰してもらえない。とりあえず、目の前の親子丼はしっかり食べておこう。あれ、取り調べって、カツ丼が出るんじゃなかったか。

 重要な用事があるから今日は帰ると言っても、その場合は任意同行を取り消して、逮捕もあり得るみたいなニュアンスで、警察官は圧力を掛ける。とんでもない難癖である。風船ふくらませたら、すぐに分かるんじゃないのか。 

 それよりも、通信履歴をチェックさせてもらうということで、スマホを取り上げられてしまい、緊急な連絡があると訴えても、証拠隠滅のおそれがあるからダメだと言われる。もう六月二二日になってしまった。午前三時を回っている。今から出発してぎりぎり夜明けに間に合うかどうか。何とか、手短にこの刑事を説得しなければいけない。こめかみに血管が浮き出そうなのを、大きく息を吐いて低めの声で言葉を絞り出した直後、墓穴を掘ったと気づいたが、遅かった。

「あの、今すぐわたしを解放しないと、とんでもない天罰が下りますよ」

           *

 ハチケンの乗る白いワンボックスカーは、半自動運転プロパイロットのプログラムを搭載している。〇から五まで六段階ある自動運転レベルの二であるが、オートクルーズと前車追従、自動ブレーキ、レーンキープ機能があれば、高速道路ではハンドルに手を添えているだけで済む。骨折したのが右足の小指付け根あたりなので、アクセルやブレーキ操作はなるべく少なくしたいところ、とても助かる。

「あー、良かった。ハチケンさん、救急車で運ばれて緊急手術とかだったら、どうしようって、心配してたんですよ。でも、なんで閃太郎くん、一緒に車に乗らずにオートバイで付いて来てるんですか?」

「うん、あいつは自動車、酔うんだってさ、おかしいだろ。あんな大型バイクでぶっ飛ばしてるくせに」

 陽子は、三人でなくても大丈夫なんだろうかと、不安に駆られたが、君世に確認するのもこわくてできない。身体を後ろにねじり、前輪を外して車載用キャリアに固定した二人のマシンに、何やら取り付け始める。

「これね、ライトは事実上要らないんだけど、保安装備は付けておかないと、途中で万一職務質問とかされたら時間取られるしね。サドルバッグには、リフレクターじゃなくて、フラッシュライト付けておいたから。ベルも、最初買った時のおまけはダサいから、こんなCの字型のおしゃれなやつ、亜弓と色違いで付けておくね。わたしがシルバーで、亜弓がブラス」

 ハチケンは全く平然と車を運転しているので、どのくらいの痛みに耐えているのか、傍目には分からない。

「あ、陽子さん。こないだもらったそのベル、とりあえず使わなくなったんで、さっき外しておいたんだよ。ダッシュボードに入れたから、返しておくね。あと、今のうちにパンでもいいから、何か糖質摂っておいて。アワイチだけで三千カロリーは消費するから」

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