第14話 昨日の友(後)

 十万辻から道場を経て、交通量の多い国道一七六号を避け、三田から県道三七号を北上すると、陽子のマンションから一時間半走ってようやく三田ループの起点である志出原交差点に至る。やや風は強いが天気も良く、亜弓の気分と体調は良好で、噂の三田ループを二周回はしようと意気込んでいた。いきなり三百キロは無理だが、とりあえず百キロ走れる実績を作って自信にしたい。今日の行程では百十キロになるはずだった。

 湘南の八代店長から紹介してもらった店で買ったアンカーには、ペダル型のパワーメーターを装着した。ロードバイクは通常、ペダルレスで販売されている。自分に合ったシューズをまず選び、それに対応するビンディング規格の中で、好みのペダルに合わせる。マシンを買い換えてもペダルは以前のを使用するのが常識であることを、八代から初めて聞いたときは、不思議な感じがしたものである。

 パワーメーターとは、自分がペダルを踏んでいる出力を、ワット数としてサイコン(サイクルコンピュータ)に時々刻々送信して、ディスプレイに表示させる装置である。陽子が付けているような、ペダルを踏み込んだときのクランクのミクロン単位の歪みと、角速度をセンサーで感知して算出するタイプが最も多い。中には走行中の風圧とか、心拍のアルゴリズムとか、ジェット機のピトー管の原理を応用して、タイヤチューブのバルブを流れる空気圧の変動から演算するものもあるが、これらはいずれも誤差が大きい。

 どんなペダルを選んだら良いのか分からなかった亜弓に対し、八代は、これからは一般サイクリストも、特にロングライドのマネジメントにはパワーメーターが必需品になるから、どうせならパワーメーターを兼ねたペダルがいいよと勧めてくれたのが、ベクター3である。確かに、自分がペダルを踏む力が数値化されるのは、想像以上に面白く、刺激的である。ただこれは、諸刃の剣というか、期待した以上に高い数字が出れば気分が上がるが、そうでなければ、人と比べて落ち込む種にもなる。とりあえずは、FTPの何パーセントで走ればどうとかいう理屈は、サイコンの画面をちらちら見ていれば体感として分かるようになってきた。FTPは、ベクター3があればサイコンの内蔵プログラムで簡単に測定できるのだが、亜弓はちゃんとマニュアルを読んでいなかった。

 亜弓のサイコンには最大十項目のデータが表示できる。あまり細かくすると見づらいし、瞬時に理解できないので、速度、パワー、ケイデンス(一分間のクランク回転数)、心拍数、勾配(斜度)、走行距離及び時刻の七項目にしている。気温や高度、平均速度や最高速度なども後から確認でき、地図画面に切り替えて簡易ナビとしても使える。スマホのアプリと連携させれば、左右のパワー配分の割合や、ペダリングでトルクが掛かる角度、ペダル軸と踏んだ重心のズレなどもすべて記録される。走行ログを丁寧に分析すれば、自分の実力や癖などが克明に分かり、効率的トレーニングに活用できるのである。

「ふうーっ、やっと一周か。最後に全力でモガくって、理屈は分かっても実際はできるもんじゃないよ、ほんと。でも楽しいね、ありがとう、連れて来てくれて。この道、走りやすいし。なんだか調子出てきたよ。よし、ちょっと休憩して、次は左回り行こうか」

 亜弓は九十ケイデンスがカーボンフレームに一番合っていると言われる理由が、何となく分かってきた。プロフォーマットで設計されたアンカーのフレームは、そよ風に押されているようだと形容される乗り味である。他と比べたことがないので、細かい違いは分からないが、ペダルを踏むリズムが、フレームのしなりが戻るタイミングと合った時に、腰を背後から支えてもらっているような感覚が生まれるのが、ちょうど毎分九十回転なのである。

 ただこれで、時速三十キロを持続しようと思ったら、フロントギヤがアウター五十T(TはTooth ギヤの歯数のこと)の場合はリヤが十九T、フロントがインナー三四Tの場合はリヤが十三Tを維持しないといけない。今の亜弓には、ちょうどギヤ二枚分、きつい所行だったが、それが明確に分かっただけでも今日の収穫である。

 二周回して、このまま三田方面を抜けて帰ろうか、やっぱりお腹も空いたし、近くにマグロが美味しいと言われるご飯屋さんがあるから行ってみようか。陽子と相談しようと停車した時、背後から聞いたことのあるような声が聞こえた。

「武智さん?すみません、亜弓さんじゃないですか?」

           *

 紗弥は混乱と後悔とが頭の中でぐちゃぐちゃになった。なぜ亜弓がロードバイクに乗って、こんな所を走っているのだろう。人違いかもしれない、でも確かめたい。

「おーい、早く来いよ、何してるの」

 美津根が温泉施設の玄関で呼ぶ。あの二人、このまま帰っちゃうんだろうか、急いで自転車を車から降ろして追いかけようか。もし、もう一周してくるんだったら、三十分から四十分待ってたら、会えるかもしれない。でも、仮に亜弓さんだったとして、わたしは何て言ったらいいんだろう・・・

「おい、泣きながらそんなとこに突っ立ってたら、他のお客さんが入れないだろう。とりあえず汗でぬるぬるの顔洗ってこい」

 美津根の太い指で腕をつかまれ、引きずられるように温泉に入ることになった紗弥だったが、あの二人がもう一周してくる可能性に賭けた。美津根には一時間後に休憩所で待っててくださいと伝え、そそくさと湯から上がり、道路脇で風に吹かれながら立っていたのである。謝らなきゃ。絶対許してなんかもらえないけど、とにかく謝らなきゃ。

           *

「え?はい、あ、あれ?紗弥ちゃん・・・?」

 亜弓は、会社で妹のように仲の良かった紗弥に、何も告げることなく退職してしまったので、いきなりこんな形で再会して、動転してしまい、言葉が出てこない。

「やっぱり亜弓さんだ。びっくりしたー。へー、自転車乗ってるんですね。わー、格好いい。わたし、この温泉にたまたま寄ったんですよ。あ、お姉さんですか、初めまして。わたし、会社でお世話になってた丸瀬です。今日は、あの、ゴールデンウィークの代休で、ちょっと関西に帰ってるんです」

 亜弓は、会社を急に辞めた理由を尋ねない紗弥に安堵したが、他人行儀と思える態度が少し淋しくもあった。三月のあの頃は、精神的に追いつめられていたし、本当に大事なことは人に相談せずに、自分の中にある答を自分で確認するものだろう。紗弥に打ち明けたところで、心配を掛けるだけだし、状況は変わらない。鎌倉を離れてしまうと、今までのように親しく遊べるとも思えなかった。ただ、そうやって自分の行為を正当化してみても、やはりばつが悪くて、紗弥の近況を何も聞かないまま、傍らの陽子に顔を向けた。

「じゃ、そろそろ行こうか」

 一人残された沙弥は、ついさっきまで自分が思っていたことと、実際に口から出た言葉のギャップにショックを受け、また涙があふれてきた。

「亜弓さん、わたし、絶対にブルベで願いを叶えてみせます」

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