第13話 昨日の友(前)

 兵庫県三田市。千丈寺湖の東側に、通称三田ループと呼ばれる、関西のローディにとっては人気の高い、二十キロに及ぶ周回ルートがある。北側の急登を除けばほぼ平坦で、交通量や信号が少なく、高速巡航の練習には最適なコースである。ソロでのんびり走る者もいるが、チーム練としてプロトンで疾走するグループが多い。プロトンとは、化学においては、陽子(水素原子核)を指すが、自転車競技では、空気抵抗を減らすべく、集団で固まって走る、その集団のことをいう。

 丸瀬紗弥は、美津根の提案で、希代のエアロロード、ヴェンジを乗りこなすべく、巡航速度三十五キロ維持の練習に来ていた。風がそこそこ強く、追い風の時はこがなくても進む感じがするが、やはり向かい風はきつい。横風はカーボンディープのホイールがあおられ、とてもこわい。見た目はとてもスマートなマシンだが、高い性能を維持するためのメンテナンスが難しく、扱いは容易でない。

「よし、その調子。もっと肘を絞って、頭下げて、投影面積を減らす」

 伴走してくれる美津根は、この位の速度ならば一日中走っていられるのだろう。会社やチームの用事で忙しいはずなのに、嫌な顔ひとつせず付き合ってくれて、ここは頑張るしかない。

 美津根のマシンはEM525。ハンニバル(人食い)とまで畏れられたロードレース界では伝説の英雄、エディ・メルクスのイニシャルと通算勝利数をその名に冠した、プロ仕様のオールラウンド機である。角張って太いフレームは、無愛想で無骨な作りに見えるが、路面情報を正確に乗り手に伝え、機能性に優れる一方で乗り味はマイルド、疲れにくいと美津根は言う。マシンと乗り手はどこか似るのかもしれない。

 このコースにはコンビニなどはないので、道の駅風の飲食店でトイレを借り、右回りに一周してから、志手原交差点を起点に、次は左回りで走る。左回りの方が、急な登りとゆるい下りの組み合わせになるので、走りにメリハリがついて調子が上がる。平地の三十五キロ巡航は、数分間くらいは持続できるようになった。

 午前中で四周回できたので、夕方までに三津根が会社に戻らないといけないこともあって、今日の練習はここまでということになった。地元で人気の定食屋に寄り、こんな山中では不思議であるが、美津根と同じマグロ中トロ定食を頼んだ。駐車場にはサイクルラックが置かれ、ツーリング途中や練習帰りのサイクリストが次々店に入ってくる。

「ねえ、美津根さん、もう一人、声かけてみるって、どなたなんですか?」

「ああ、真理子のことね、荻原真理子。プロのレーサーだよ。速いよ、おれより絶対速い。ブルベの話はまだ言ってないんだけど、多分乗ってくるよ。なんせ、病気でヨーロッパからシーズン途中に帰ってきちゃって、リハビリ名目で中途半端にヒマしてるから」

 女子にプロレーサーがいること自体、紗弥は知らなかったが、そんな人が一緒に走ってくれたら、心強い。

「でも、病気って、大丈夫なんですか?」

「いや、おれもよく知らないんだけど。伝染性なんとか症ってやつでね、熱が出たり、体がだるくなって、頭痛もあるらしい。有効な治療法がなくって、いったん治ってもまた再発しやすいんだってさ。たまにいるよ、カベンディッシュとか、有名な選手も罹ってたし」

 自転車のプロの世界って、日本じゃ全然話題にもならないけれど、トッププロでも賞金は、他のスポーツに比べればびっくりするほど低いらしい。ツールドフランスなんて、オリンピックとサッカーワールドカップと並ぶ世界三大スポーツ祭典ってことになっているけれど、結局お金が動かないと人も注目しないのだと思うと、紗弥は少し淋しい気持ちになった。でもマグロは美味しい。

「ところで美津根さんは、ブルベで何をお願いするんですか?」

「え、別にそんなのないよ。というか、それを人に聞いたらダメだろう。御利益なくなるぞ」

 日焼けした目尻にしわを寄せながら笑う美津根を見ていて、紗弥は、この人がお父さんだったら良かったのにと、包まれるような安心感を覚えた。淡路島の実家には、もう一年間も帰っていない。正月は帰省どころじゃなかったし、四月の頭に会社を辞めたなんて、どうやって家族に説明できようか。

 高校を出て、親元を離れ、知らない土地で精一杯仕事に打ち込んだ。それなりに評価もされ始め、職場の先輩とも仲良くなれたし、久しぶりに彼氏もできて、このまま人生が幸せ色に満ちていくんじゃないかって、期待していたのに。

 人を信じたら裏切られる。愛しても、それと同じだけの愛は返ってこない。やっぱりそんな人生なんだよね。彼が、どうやって知り合ったのか、会社の先輩と一緒にいて、問いつめてもとぼけるし、結局そのアラサーおばさんに横取りされちゃった。そのまま彼とは連絡が取れなくなり、あんまり悔しいから、おばさんの不倫をでっち上げて、SNSの捨てアカで拡散してやった。思惑通りに、会社の中で噂が広まって、陰キャラのおばさんはコミュ障になって、三月で会社辞めちゃった。

 ざまあみろ、のはずだったのに。ものすごい後悔が襲ってきた。だって、わたしが退職に追い込んだのは、若作りした色目使いのおばさん、じゃなくって、わたしが憧れて、姉のように慕って信頼していた、ねえさんだったから。わたしは彼も、大切な友だちも失ってしまった。いや、わたしのことはいい。彼と、あの人に取り返しのつかない傷を負わせてしまった。もう二度と、やり直せないけど、やり直したい。半年前に戻りたい。

「なに泣いてるの、ワサビ付けすぎか?ほら、もう勘定しといたから、近くの温泉入って帰るぞ」

 美津根の大人な対応に促され、体の疲れ以上に重くなった腰をようやく上げて、紗弥はワンボックスカーの助手席に乗り込んだ。目指す天然温泉は、有馬富士を望むのどかな道沿いにある。駐車場に車を停め、タオルと着替えを持って建物に入ろうとしたとき、二人組の女性ライダーが連なって通り過ぎるのを見かけた。アイウェアで表情は見えないが、後ろを走っている女性の体つきや、雰囲気に何となく見覚えがある。

「えっ?まさか、今の、亜弓さん・・・」

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