第12話 ビルドアップ(後)

 名古屋駅にほど近い住宅街。二階建ての民家にしか見えない建物のガレージ脇に、小さく46CYCLEのロゴが確認できる。勝手口のようなガラス戸の奥には、業務用扇風機とローラー台が並んでいる。店主の猛井四郎は、松葉杖を頼りに車いすから何とか立ち上がり、パソコンと、細かい数字がびっしり記されたルーズリーフが積まれているデスクに、片足を引きずりながら移動した。普段は自転車に関心のない彼の妻が、心配そうに見守る。

「いてて・・・しかし参ったよな。鎖骨折れると泣くほど痛いって聞いてたけど、よく分かったよ。まあ、足の方は骨に異常なかったし、早けりゃ来週にはトレーニングに戻れるかな」

 猛井の実家は、名古屋ではマイナー扱いされるが、手打ち蕎麦で名高い店である。高校を出てから午前中は蕎麦打ちを手伝いながら、午後は自転車に打ち込める環境だったこともあり、富士ヒルや乗鞍チャンピォンクラスという、日本屈指のヒルクライム大会で優勝したことで、そば屋の四郎と呼ばれ有名になった。

 ただ本人は、体重の増減が激しいことと相関するのかは不明だが、結構気分の波が大きく、乗鞍優勝で自分に勝った感があり、周囲の期待とはうらはらにその後のレースで結果を残せず、いらいらして物に当たるなど、低迷が続いた。それを救ったのが彼の母親の、「中途半端に続けるくらいなら、もう自転車に乗るな。乗るんだったら、燃え尽きるまでやりなさい」という叱咤と、結婚したばかりの妻が「家のことはいいから、好きにやったら」という、一見投げやりな励ましだった。

 もともとが単純明快な思考回路で、目標を立てて、計画的にクリアしていくことが好きだったこともあり、うじうじ悩むのは止めにして、トレーニングに打ち込める環境を作ろうと思い、実家を離れて、生徒と一緒に走りながら自分の練習もできるローラー教室と、その生徒たちの自転車の整備を行う店を開いたのである。

 日本のアマチュアロードレースの最高峰と言われるツールドおきなわに向けて、ライバルが月に三千キロ走り込んでいると聞いた猛井は、ライバルと戦う土俵に乗るために、実走毎月三千キロを自らに課した。アマの練習量としては狂気の沙汰である。結果的には勝てなかったものの、そこで蓄えた無尽蔵のスタミナは、昨年の最速店長選手権で、序盤から連続してアタックを仕掛け続け、過去最高齢の四十四歳での優勝という栄誉をもたらした。

 それで気が抜けた訳ではなかったろうが、ローラー教室の生徒らを引率して、近郊で高速巡航のレッスン中に、直前の生徒が小石を避けようとして斜行したのに接触し、その生徒が落車しないよう急制動を掛けてしまった結果、自分が道路脇のコンクリート塀に激突して鎖骨骨折、全身打撲を負ったのである。いろいろ言いたいことはあるが、レッスンの在り方とか、ケガをした際のリハビリメニューを考える時間ができたと、前向きに捉えていた。

 パソコンに、滋賀県の脇本店長からのメールが入っている。レースではいつも最後尾で体力を温存し、集団の状況を冷静に観察するのが彼のスタイルである。勝負所で一気に先頭集団にブリッジを架けて最後に抜き去る、若いのにヨーロッパ仕込みの老獪な走りをする奴だ。東京の庭島店長からもメールが来ている。レース歴は浅くて、細かい駆け引きは苦手だが、体力にものを言わせて序盤から集団の前を曳き、ゴール前では豪快なスプリントを見せる、なかなか気持ちの良い人だ。二人とも、九月の最速店長選手権の時にしか会うことがないが、何の用だろう。

「マジかよー、こんな見え見えのトラップ。願いごとなんて、次のレースの優勝しかないっしょ。おれの連覇を阻むために、一緒に走って弱点見つけるつもりか。こっすいことを。よっしゃ、乗ったろうやないか。ちょうどええリハビリにもなるしな」

           *

 入念にストレッチをして、サポートソックスを履く。髪は後ろで束ねて、汗止めのヘッドバンドを付ける。ハチケンから示唆されたように、サドルを五ミリ下げ、ペダルのクリート位置を高回転向きに二ミリ、つま先寄りに調整する。ハンドルのブラケットは指先に力を入れず、掌のくぼみで優しく包み込むように握る。傍らの陽子は何だか楽しそうな表情だ。

「オッケー、スタートして」

 先週は勝手が分からなかったが、タブレットに表示されるワット数は気にしない。クランク回転数九十を保てる一番重いギヤで、サドルに座るのではなく、ペダルを踏みおろすのでもなくて、体重を時計の一時から四時までの九十度の間だけ、交互にペダルに預けることを意識する。相変わらず汗はぼたぼた流れ落ち、ヒマラヤの高山かと思うほど酸素が足りず、ふくらはぎに太ももまでつりそうになったが、二度目のFTP計測は意外とあっけなく終わった。

「百三十四ワット!やったー、十も増えたよ」

 陽子は自分のことのように大喜びしてくれるが、この数字自体は全然ダメだ。ハチケンも、フォームとペダリングを見直せば、十から二十は誰でも上がると言ってた。要するに、基礎体力が全然足りない。

「じゃあ、今日から一緒に筋トレやろう。わたしも亜弓が一緒だと、サボれないからちょうどいいわ」

 陽子によれば、スクワットは足が太くならないか女子は心配するが、筋肉が増えた分、脂肪が減るので、見た目はむしろすっきりするという。膝がつま先より前に出ないよう気をつけて、十回。腕立て伏せは情けないことに一回もできなかった。高校の体育では十回くらいはできたはずだが、OL時代に全然運動していなかったせいか。陽子の助言で、腕立て伏せの姿勢でじっとするプランクを一分。これだけで結構きつい。上体を起こすのと、伸ばした足を持ち上げる腹筋を十回ずつ。これを三セット。このままシャワー浴びずに寝てしまいたくなる。

「あとは自転車ね。ローラーでもいいんだけど、亜弓は昼間時間があるから、実走がいいよ。FTPの九十パーセントで二十分、これがSST、スイートスポットトレーニングといって、一番効率的なの。あとはFTPの七十パーセントで二時間、これが持久力を付けるベース走。それからFTPの八十パーセントで二十分、これが高速巡航を維持するためのテンポ走。それと、集団でのアタックに対応するにはインターバルトレーニングが必須なんだけど、これは今回は要らないわね。

 でも、体力を向上させようと思ったら、ビルドアップ走をしないと。FTPの五十パーセントを五分から始めて、六十パーセントを五分って順に上げて行って、最後にFTP走を一分。要するに、軽い強度から始めて、全力で終わるってことを続けないと、能力値は上がっていかないの。何事もそうでしょ。最初だけ頑張って、ラクに終わってたら、成長しないっていうことよ」

 多分すべてハチケンの受け売りだろうが、陽子の得意そうに説明する単語や数値がほとんど理解できないまま、亜弓は最後の言葉だけが耳に残り、自らに言い聞かせるようにつぶやいた。

「成長って、ラクじゃないんだね。成長したいって思い、できるって信じること、それが大事なんだね」

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