第11話 ビルドアップ(前)

 十万辻からは快適な下り基調の道となる。県道三二七号に入り、新名神高架下を縫うように走っていくと、風景は次第にさびれ、赤い吊り橋が印象的な武田尾温泉郷にたどり着く。廃線跡のハイキングを楽しむ家族連れやカップルもいるが、豊臣方の落武者が薪拾いの折りに見つけた温泉というだけあって、蕭々とした風情がただよい、都会の喧噪に疲れた身を癒すには格好の場である。

「ほら、ここで止めるね。この姿勢、時計の文字盤、六時のところ、つまり真下まで思い切り踏んづけてるでしょう。踵が落ちてるのが証拠だよね。坂が辛いとどうしても思い切り踏み降ろしたくなるんだけど、逆に効率が悪いわけ。下まで行った足を上に戻すのに意識してエネルギー使わなくちゃいけなくなる。そうじゃなくて、踏むのは一時から四時まで。あとは自然に抜重。脱力とはちょっと違うんだけど、とにかく踏まずに逆の踏み足に体重をスイッチする。これだけでペダリングが随分ラクになるから」

 温泉旅館が無料開放している足湯に浸かりながら、ハチケンは亜弓に、乗り方のコツを丁寧に解説してくれる。足湯は三畳ほどの正方形の東屋になっており、武田尾駅で乗り降りするハイカーや、オートバイに乗ったツーリストが代わる代わる訪れる。ハチケンは有馬温泉の足湯に浸かれなかったのが、よほど残念だったらしく、新名神をくぐって東側に向かう、一庫ダムコースと迷った末に、こちらを選んだのだった。今日は、陽子が仕事なので、ちょっとしたデート気分でもある。峠を登っている時は汗だくだったが、下りは冷える。ボアクロージャーと呼ばれるダイヤル調節機能で、きつく固定したシューズから解放されて、くるぶしから下が足湯に溶けていくように心地よい。足の裏からじわじわと、体全体に血行が良くなるのが実感できる。

「ありがとうございます。よく分かりました。気を付けてみますね。それと、あの、聞いてもいいですか。ハチケンさんって、何のために、そんなに頑張ってるんですか。自転車とか、マラソンとか、ほんとにすごいと思いますけど、わたし、何ていうか・・・」

 世の中には結果を残せる人と、残せない人がいる。その前に、頑張れる人と、頑張ること自体が難しい人とに分かれるのではないか。何となく流されるまま生きてきたという自覚の強い亜弓にとって、ストイックなモチベーションというのは、どこから涌いてくるのか、よく分からない。昨夜は、絶対生まれ変わろうと思ったものの、景色を見ながらサイクリングしていると、なんとなく満足してしまい、決意のような気分は薄くなっている。単純に、勝って嬉しいとか、負けて悔しいというような感受性が鈍いのだろうか。

「うーん、なぜカメラマンしてるんですかって質問なら答えやすいんだけどな。まあ、結果は後からついてくるものだからね。人に勝って優勝とか、自分に勝って記録更新とか、それは確かに大きな目的になるけれど、よっぽど才能や環境に恵まれた人でないと、結果を目的にし続けるのはしんどいかもね。ぼくも、多分、陽子さんもそうだと思うけど、頑張ってる時の自分が好きなんだよ。たとえ結果がダメでも、自分を認めてあげられるっていうか。結果よりプロセス、先のことより今この瞬間って感じかな」

 ハチケンが分けてくれたプロテインバーをかじりながら、亜弓は昨夜の自分の感情を反芻し、少し安堵した。

「でもね、いちばん難しいのは続けることなんだ。折角トレーニングして数値的にアップしても、放っておくとすぐまた下がっちゃうし。焦って結果を欲しがるようになると、今度は思うように結果が出せずに自己嫌悪に陥って、モチベーション自体が下がっちゃう悪循環になるしね」

 信じることが必要なんだな、と亜弓は気づいた。頑張れる自分を信じること、そして、しんどい思いをしながら頑張っていること自体が、間違いじゃないと信じること。

「ハチケンさん、帰りは多田神社にお参りして行きませんか?源氏ゆかりの、勝運の御利益があるそうですよ。あ、それと陽子から聞いてますよね。アワイチとビワイチのシークレット・ブルベ。ハチケンさんも一緒に走ってくれますよね」

 ハチケンが口を開こうとした時、川沿いに太い排気音を響かせながら、メタリックブルーのロケット弾のような大型バイクが近づいてきた。カメラが趣味で、寿司屋のバイトの合間に、ハチケンのアシスタントと称して雑用をやってくれる、音塚閃太郎だった。亜弓が一緒なのはすぐに気づいたようだ。

「今日はカートの有望選手の取材じゃなかったんですか。カートフィールドに寄ったら、多分足湯でも行ってるんじゃないのって聞いたんで」

「ああ、ごめんごめん。なんか背中を痛めたとか言って、今日は来てないんだってさ。撮影は一人でできるかと思って、閃太郎には連絡してなかった。せっかく手伝いに来てもらったのに、悪かったね」

「いや、どうせ今日はヒマなんで、別にいいっすよ」

 閃太郎は、どこかお気楽そうな亜弓の様子を見やりながら、眉間をかすかに翳らせた。

           *

 東京都日野市、多摩動物公園と多摩川に挟まれた住宅街にNAGEサイクルはある。玄関に小さな置物の看板があるだけなので、知らない人はスポーツサイクルショップと気づかず素通りしてしまう。完成車の販売もしているが、主に顧客のバイクのオーバーホールやパーツのグレードアップなど、メンテナンスを行っている。店主の庭島栄司は典型的な理系の体育会系で、自転車にはまる以前にも様々なスポーツで活躍し、並外れた体力を誇る。その鍛え上げられた肉体は仲間内から超合金Zと呼ばれるほどである。息子が生まれたのを機に、大手ショップの整備士から独立した。二年前の最速店長選手権で優勝してから、顧客が殺到し、現在では予約の取れないショップとして有名になった。

「ねえパパー、何笑ってるの?お友達からメール?またどっかレース行くの?」

 息子が小学校に上がったので、送り迎えがなくなり、夕方の子守はもっぱら庭島の役目である。今日は天気が悪いのでキャッチボールができず、家の中で遊ばせていた。作業場にところ狭しと置いてある商品や、数々のレースで勝ち取ったトロフィーに触ると怒られるので、息子はパソコンに向かう父親にじゃれついてくる。

「なんだこりゃ?シークレット・ブルベのお誘いって。どうせまた脇本くん、良からぬことを企んでるな。しかし楽しそうだな。え、四郎さんも誘っておきましたって、本当かよ。こりゃ出るしかないよな。なあ壬生郎、何か願い事が一つだけ叶うとしたら、何がいい?」

「うーんとね、パパより強い、超合金スーパーZに変身する」

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