第10話 イカロスの翼(後)

 宝塚駅の少し北側、武庫川沿いから山手に入ると、いきなり急登の坂が出迎える。茶色っぽかった景色に明るい緑色が増えてきて、頬をなでる風が心地よい。平均斜度五パーセント強の登りが続くつづら折れの道路には、カーブナンバーが付けられていて、三十番まで登ればトンネルの手前、十万辻のバス停にたどり着く。ここは地元の定番コースなのだろう、何人ものローディが軽々と亜弓を追い抜いていく。

 気温は十一度。まだ寒いだろうと、サイクリングロードの服装と同じく、半袖ジャージの下にメリノウールの長袖レイヤーを着込んできたことを、亜弓は後悔していた。まだ十八番、額から汗が流れて目に入る。痛すぎてコンタクトを付け直したいが、足を着きたくない。というよりも、登りながらビンディングを外す自信がない。速度は十キロも出ていないので、ここで立ち転けしても、車に轢かれない限り大けがはしないだろうが、さすがに格好悪い。

 サイクリストはアイウェアと呼ばれるサングラスを掛ける。長時間屋外の紫外線にさらされるのと、飛んでいる虫や、タイヤがはね飛ばす砂粒が目を直撃するからである。下りでは、一般的なアマチュアでも時速六十キロくらいは出る。裸眼では風圧で刺激されて涙が出るため、視界がぼやけて非常に危険なのである。

 サイクルジャージには、背中と左右の腰部の三カ所にポケットが付いている。人それぞれであるが、ハンドタオルや財布、スマホ、補給食などを入れることが多い。スペアチューブや携帯インフレーター(空気入れ)、ワイヤー錠、アーレンキーなどの工具やスペアのドリンクボトルを入れる人もいる。

 亜弓は、とりあえずアイウェアを外してポケットのハンドタオルで顔の汗を拭いたかったが、背後から、時に併走しながら細かく指示してくるハチケンに対し、休憩を取る口実と誤解されるのが嫌だった。

「よし、そこでギヤ一段落として。ケイデンス(クランク回転数)六十は絶対切らないように。はい、いいよ、その調子。お尻がずり落ちてきてるから、もうちょっとサドルの前に座って。そうそう、登りは腰の位置を高く保つイメージでね。ハンドルがグラグラふれてるから、推進力が逃げちゃう。体幹はすぐに鍛えられないけど、ブラケットしっかり持って。そう、ブレーキレバーの上のところ。白線の上をトレースするように。しんどいと、呼吸が浅くなりがちだから、吸うよりまず、吐ききることを意識して。そうそう、いい感じ」

 後で動画を見せてフォームとペダリングの改善点を指摘するつもりなのだろう。こんな坂道でいとも簡単そうに、スマホで撮影しながら、片手でロードバイクに乗っているハチケンは、やはり同じ人種とは思えない。亜弓が彼に指導を受けようと思ったのは、前夜のFTP計測があまりにふがいない結果に終わったからである。

 自転車のヒルクライムの世界は、パワーウェイトレシオでタイムがほぼ正確に予測できてしまう。FTPを体重で割ったものであり、アマチュアでも大会に出る選手は四から五くらいが多い。そのFTPであるが、一時間継続できる、限界出力の数値(ワット数)を指す。一時間全力で漕いで計測するのが正式だが、二十分全力の数値の九十五パーセントで代替する場合が多い。

 同じ三百ワットでは、当然体重の軽い方がパワーウェイトレシオは高い。なので、ヒルクライムの選手は、トレーニングでFTPを高めつつ、過酷な減量をする。自転車の軽量化は当然であり、ハチケンの愛車エモンダは、フロントギアシングル化をはじめ、各種軽量パーツに組み替えることで、なんと五キロを割る超軽量マシンに仕上がっている。

          *

 アンカーの前輪を外し、ローラー台にセットする。サドルにまたがり、シューズをペダルにはめる。思ったよりもハンドルがぐらぐら不安定なので、陽子がエストラマーの設定をソフトからハードに切り替えてくれた。ローラーの回転抵抗は初心者ハンデとして、一番軽くに設定した。ズイフトを起動し、アンカーのスピードメーター、ケイデンスメーターとペアリングする。ギヤはフロントインナー(小さくて軽い方)、リヤはとりあえず、小さい方(重くて速い方)から五番目にセットした。FTPテスト短縮版のワークアウトを実行する。タブレットの画面に表示された数値に合わせてひたすらペダルを踏めばよい。まず出力六十ワットから徐々に上げるウォームアップを五分、これは亜弓にも難なくできる。問題は本番のメニューである。

 百六十ワットを二十秒、これはクリアできた。二十秒ごとに指定ワット数が上がる。次は百九十五ワット、これも何とか頑張った。次は二百三十五ワット。「腕を引きつけて!」とハチケンがアドバイスをくれるが、一瞬届いたものの、二十秒は無理。三分休憩の指示があり、それから百九十五ワットを三分。もうダメ、ギヤを二枚軽くしたが足が回らない。肺が痛い。酸素が足りない。ふくらはぎがつりそう、さらに二百十ワットを二分。全然届かない。汗がぼたぼた落ちる。陽子がタオルで拭いてくれるが、邪魔。もう止めたい。すると九十五ワットで六分。やれやれ、やっと終わった。と、亜弓が思ったのは、実は本番計測前に速筋パワーを使い切るための予行なのだった。

「ええっ!今から本番なの?マジで力使い果たしてるんだけど」

 陽子は男前の一方でM気質だが、こういう時は容赦ない。亜弓の甘えた視線を受け入れてくれる余地はなかった。

「はいスタート。二十分間、全力でどうぞ」

 画面には、自分のアバターの他に、誰だか分からない何人かが一緒に走っている。全員に抜かされた。現在の出力のほかに、平均出力も表示され、刻々と変わる。傍らで陽子が、頑張れとか何か言っている。ハチケンは唇を結び、腕を組んだまま何も言わない。亜弓が見つめる画面は、半分過ぎたとか、あと五分、四分、とカウントダウン表示されるが、本当に予行で力を使い果たしてしまい、全然数字は上がらない。結果は百二十四ワット。パワーウェイトレシオは三どころか、二の前半である。

 このまま倒れようにも、足にまったく力が入らず、自分でペダルを外せない。陽子に抱えられるように自転車を降り、スポーツドリンクのボトルを握りしめたまま、亜弓はしばし放心状態であった。

 ハチケンのように競技で成績を残したいなんて思わない。陽子みたいに無心で頑張ることもできない。でも、このままじゃ嫌だ。せめて、この翼、アンカーを乗りこなして、新しい風景を見たい。太陽に近づくまで飛べるとは思わないし、その結果何が待っているのかも分からないけれど、ここから先は自分次第で変わる。今はまだ、達成感とか充実感を味わう以前の段階にいるんだ。失業保険が切れる六月までに、目先の就活よりも、自分をもっと好きになりたい。今日の数字で分かったのは、実は自転車のパワーじゃない。何かと言い訳して、甘えてラクをしたがっている自分自身の実力そのものなんだ。心配そうに見つめる陽子と、ちょっと困った様子で首をかしげているハチケンに向かって、亜弓は宣言した。

「わたし、ブルベに出る。その前に、もっと走れるようになりたい。山も、登れるようになったら、嫌じゃなくなるかもしれないし。六甲はさすがにまだ無理だけど、ハチケンさん、よかったら、明日でも、近くの峠に連れてってください」

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