第9話 イカロスの翼(前)

 陽子のマンションから、川沿いのサイクリングロードに行く途中に、それほど広くない畑があり、葱の合間に菜の花が咲いている。似たような外観の建売り住宅が並ぶ中で、その一角だけ明るい日だまりのようである。桜があっけなく散って、クリーニング店のドアには冬物半額セールのポップが貼られる。最高気温が二十度になるのを境目として、ローディーと呼ばれるロードバイク乗りたちのウェアも、長いタイツから膝上丈のパンツ姿が増えてくる。

 細かい霧のような雨が降ったりやんだりするのを窓越しに眺めながら、陽子は軽くため息をついた。

「一番いい気候になったのにね。これくらいの雨なら走るのは大丈夫だけど、後の手入れとかが面倒だし。今日はズイフトにしとこうかな」

 傍らの亜弓は、どう返事をしようか一瞬迷った時に、玄関のチャイムが鳴った。カーテン越しに往来を見やると、黒縁眼鏡を掛け、サポートインナーを身に付けた三十代に見える男性が、タオルで顔をぬぐっている。

「こんにちは。ちょっと近くを走ってきたんで、顔を見に寄っただけなんだけど、元気?」

 鉢元健一は出版社に勤めるスポーツカメラマンである。マラソンやロードバイクを趣味としており、フルマラソンを二時間三十分台、自転車でも富士ヒルクライム総合優勝など、アマチュアトップレベルの実力者として知られている。サラリーマンなので、撮影がなくても基本は出社しなければならない。ただ、結構自由に休暇は取れるようで、イベントや、自身のトレーニングのために、あちこちを走り回っている。陽子がフランスのイベントに呼ばれた際に、自転車で随走しながら、肩に担いだ望遠一眼レフを、片手で操りシャッターを切るという芸当をやってのけた。それが、仲間内からハチケンの愛称で親しまれている彼なのだった。しかし、この天気の中を、まるで近所の散歩から戻ってきたように顔を見せたが、いったいどこを走ってきたのか。

「いやー、やっと六甲も路面の凍結がなくなって、普通に走れるようになったね。今日は芦屋川から有馬に抜ける、一番ポピュラーなコースを軽く走ってきたんだ。そう、今日は自転車じゃなくて、トレイルラン。半分くらい歩いて一時間半くらいかな。登りが一時間で。結構みんな走ってるよ。ぬかるみは滑るから、今日はだいぶ歩いた方だね。

 ロックガーデンの先の、風吹岩だっけ、あの鉄塔のところに、やっぱりネコ居たね。誰か餌付けしてるのかな。あ、そうそう、一軒茶屋で噂のママチャリ少年、初めて見たよ。本当にすごいよね、ジーパンにスニーカーで。毎日二往復してるんだって?」

 身長は陽子より若干低いくらいか。全体に細身だが肩幅が広く、颯爽とした佇まいである。しかし話が時折脱線しながら、一方的に陽子に話しかけているので、亜弓はあいさつするタイミングを失っている。陽子が普段から走り込んでいる六甲山は、関西のサイクリストにとっては一種の聖地である。逆瀬川駅前から一軒茶屋までの東ルートは、関東のヤビツ峠より高いし急峻な箇所もあるが、自転車で日課のように登る者も少なくない。中には四十分を切る豪脚もいるが、陽子のように五十分を切れば、クライマーを名乗って恥ずかしくないレベルであり、一時間半で途中足を付かずに登り切れば、初心者卒業といわれる。

「自分の足で走って一時間って、すごいですね」

 ようやく亜弓が話に入ることができて、ハチケンは初めて彼女に気づいたようだった。亜弓と陽子はお互いに視野が狭いとなじり合っているが、彼もそうなのだろうか。

「あれ、妹さん?初めまして。陽子さんとよく似てますね。すみません、何もお土産とか持ってきてなくて。有馬で炭酸せんべいでも買っておけばよかったな。あるいはお酒のアテに千成漬とか。あれ、結構うまいですよね。そうそう、金の湯の近くに無料の足湯があるんだけど、観光客ですごく混んでてね。バスの待ち時間にちょっと浸かろうと空くのを待ってたんだけど、バスに乗り遅れそうになって、結局入れなくって・・・」

 陽子は相づちを打ちながらにこにこしている。彼氏、というほどの仲でもなさそうだが、お似合いの雰囲気が、傍らの亜弓にもほんわかとした暖かさとして伝わってくる。そうか、陽子がロードバイクに夢中になっているのは、彼に付いていきたいためなんじゃないかな。何だかすごそうな人だし。そこまで思いを巡らせたとき、陽子が振り返った。

「そうだ、せっかくだから、ハチケンがこっちにいる間に、一緒に六甲登ろうよ。例のブルベ、淡路島の南東側の坂は一見さんにはきついから、練習するなら、やっぱり六甲クライムがいいよ。六甲だったら、どうせ口呼吸しかできないから花粉なんて関係ないし、なんならマスクして走ったら、低酸素トレーニングになって、丁度いいじゃない」

 淡路島一周百五十キロ、それに続いて琵琶湖一周百五十キロ。家の近所を散歩がてらにちょこちょこ走りながら、ロードバイクの乗り降りや、変速、ブレーキ操作、クラウチングスタートのような前傾姿勢にやっと慣れてきたばかりの亜弓にとって、それは実現不可能としか思えない未知の距離である。それに真偽不明の伝説に乗っかって、目をきらきらさせ亜弓を巻き込もうとしている陽子には付き合い切れない。

「いや、ごめんね。わたし、そもそも願い事なんてないし。山登りの趣味もないんで、遠慮しとくわ」

 亜弓は人と意見が違っても、あまり正面切って論争するタイプではない。どちらかというと、空気を読んで周囲に合わせてしまい、少しくらいなら我慢してやり過ごす方である。毎日、ヒマといえばヒマに違いはないし、せっかくのロードバイクが宝の持ち腐れと言われれば確かにそうなのだが、このブルベの話だけはご遠慮したい。今より体力が付いて、ライディングスキルが上がったとして、自由に向かってとか、調子に乗ると、身の丈を越えてしまって、何か罠とか罰が待っているんじゃないだろうか。ロードバイクは自分の好きなように乗りたい。なんだか場違いな世界に足を踏み入れてしまったような気もする。はっきり断っても不服そうな陽子を見ながら、亜弓が次の言葉を考えていると、ハチケンが口をはさんだ。

「亜弓さん、でしたね。まだロードに乗り始めってことは、自分の力が客観的に把握できていないから、いろいろ不安になるんでしょ。とりあえず、*FTPを計ってみたら?パワーウェイトレシオが三くらいあれば、六甲は余裕で登れるから」


*FTP(Functional Threshold Power 機能的作業閾値出力)


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