第15話 勝者はいつもひとり(前)

 群馬県前橋市。実業団チーム、前橋グリフィンを擁する老舗ショップが全国的にも有名であったが、市長自らがサイクリストとして音頭を取り、駅前の一等地に最大手メーカーの巨大なショップを招致したり、初心者向けには利根川サイクリングロード、上級者向けには赤城山のヒルクライムルートを整備するなど、自転車の街づくりというのは本気らしい。

 荻原真理子は、日課にしている赤城クライムを、早朝にこなして、休養先の実家に戻ってきた。合同庁舎前から県道四号線を、山頂の観光案内所まで二十キロ、獲得標高千三百メートル。今日のリザルトは一時間五分。アマチュアのエキスパート女子なら間違いなく優勝できるタイムである。

「うーん、いまいちだなあ。夏までに一時間切りできるくらいにコンディション戻さないと、来年の契約難しいかも」

 美津根から、何やら怪しげなブルベの誘いが来ていた。あの人は自転車乗りとしては尊敬できるが、たまにいい加減なホラを吹く。もし、願いごとが叶うとしたら、当然ながら健康な身体がほしい。ウイルス性の単核球症は、完治という診断がもらえない。日常生活に大きな支障はないものの、スポーツ選手としては、なかなか厄介な病気であった。今より強くなるのは、願い事が叶った後に自分でトレーニングを積めばいい。他力本願で変に良いことがあったら、きっとそれと同じだけの反動がある。

 全日本女子ロードで空前の成績といえる、五度の優勝を誇る真理子であるが、プロになってイタリアのチームでは、ほとんどエースのアシスト役だった。何百人走ろうが、表彰台の一番上に立てるのは一人だけである。自転車レースは、チームスポーツなのに、個人スポーツのような構造にもなっている。もともとヨーロッパの文化であるロードレースに、東洋人が一人混じったところで、どんなに速くてもエースにはなれない。でも、もう何年も残っていないであろう選手生命を全うするまでに、実力でエースと認めさせたい。そのために、今自分ができることは何だろう。

「よし、リハビリがてら、そのブルベに出てみるか。一番になれば、何か良いことがありますって、そりゃ当然あるでしょ。美津根さん、多分まだ何か隠してるんだろうけど、いいや。たまにはおじさんを千切ってストレス発散するかな」

           *

 長時間にわたるロードレースや、休憩時間の惜しい長距離ブルベにおいては、補給食をどうするかは重要な問題である。午前五時にスタートして、琵琶湖の北湖百五十キロをすいすい走り、十時前には滋賀県守山市のショップまで戻ってこられた。散歩というには長いが、脇本優は、開店前の朝練ということで、ローズピンクのジャージを揃えた数人のチームメートを従え、カフェイン二百ミリグラム入りのゼリー食を片手に握って、美味そうにちゅうちゅう吸っていた。運動後は、本来ならプロテインバーをかじるべきである。

 どのスポーツでもドーピングは厳しく禁止されているが、禁止項目から外れているカフェインを、ブドウ糖と一緒に摂るのが一番効く。漢方の強壮薬入りの高価な栄養ドリンクや、コンビニで並んでいるビタミン入りのエナジードリンクなどすべて、即効性の正体は実はカフェインであり、コーヒー三杯分のカフェインを含有するゼリー食は、疲れが吹っ飛び、集中力が増すという、ほとんど覚せい剤並みの、手放せない好物なのだった。ただ、提供してくれるメーカーに配慮して、人に聞かれたら、梅肉エキスの天然のクエン酸が効くんですよと、適当に答えることにしている。

「庭島さんも四郎さんも、店休んでわざわざ来てくれるんやから、サポートカーの方は頼むわな。無事に終わったら、西宮でもええし、ぱあっと打ち上げ行きましょや。おごるで、皆さんの分も」

 上機嫌に振る舞いながら、サイコンのデータをスマホに転送し、ペダリングモニターの画面と左右のパワー値を見て、脇本は顔を曇らせた。勝者は一人だけ。西宮戎神社に真っ先に駆け込むのは何とでもなるとして、詳しいルールが不明な以上、三百キロのゴール地点、琵琶湖大橋米プラザにも一番で着いておきたい。そのためには、ゴール前であの二人をぶっちぎるだけのパワーを温存しておかねばならない。

(今日も右が五四パーセントで左が四六か。左に合わしてバランス取ったつもりやってんけどな。やっぱりイタリアで痛めた左膝が完治せんか。イタリアでいためるのはサラミとポルチーニ茸だけで良かったわ、ほんま)

           *

 どの業界にも大人の事情というものは存在する。栃木県宇都宮市。日本では常勝の実業団チームである宇都宮ヴェントが一般公募で結成したアイドルユニット、ヴェントエンジェルの、突然の解散告知は、事前のリークが一切なかったために、ファンのみならず、グループの本人たちを一番驚愕させた。

 活動自体はとても順調だった。レースクイーンとしてチームの応援に駆けつけるのは当然として、各地で開催されるサイクルイベントのゲストライダーや実況のMC、幼稚園や小学校を回って自転車の安全な乗り方を教えるエンジェル体操のパフォーマンス、地元の観光スポットや自転車の魅力を伝えるする動画配信など、いずれも好評だった。メンバーは時折代替わりするので、現在はキャプテンのケイ、副キャプテンのシホ、エースのミドリと新入りのメグ、この四人で活動を続けていた。

 シホは、長身の金髪、一見ヤンキー風で感情の起伏が大きい反面、繊細で気配り上手であり、自転車への愛着は誰にも負けない。ロードバイクはほぼ初心者だったが、イベントライドでめきめき頭角を現し、ヒルクライムを得意とする。マネジャーから楽屋で解散決定の報せを聞かされた時は、何の責任も権限もないマネジャーに殴りかかろうとして、慌てて自分の両頬を張り倒し、そのまま床に泣き崩れてしまった。

 大学のサイクリング同好会出身で、旅好きのケイは、活動資金の調達が難航したのだろうと洞察したが、チームの監督に直接尋ねても、何も教えてくれなかった。こういう場合、いったん決まったことは変わらないと知っているケイは、メンバーの皆を気遣いながらも、とりあえず今までのキャリアを活かそうと、雑誌社に売り込みに行くことを考えた。

 ユーチューバーを目指している情報通のミドリは、気休めにでもなればと思って、ネットで見かけたメビウス・ロードの噂を口にした。キャプテンのケイは黙り込んだが、食いついたのは副キャプテンのシホである。

「それ、行くっきゃないよ。絶対にヴェントエンジェル、解散なんかさせない。だって、ここに居られなくなったら、わたし、もうあんな工場の夜間バイト生活なんて戻りたくない!」

 傍らのケイの顔色をうかがいながら、ロード初心者のメグが同調する。

「だよねー、シホさんが行くならわたしも行こうかな。他にやることもなくなっちゃったし」

 言い出しっぺのミドリは、場の空気が予想を超えてしまい焦ったが、今さら自分が出ないとは言えなくなった。シホは、穏やかな表情に戻って、ケイに右手を差し出した。

「長いこと、ありがとうね。わたしら三人で出るわ。ケイちゃんは、自分の夢を絶対叶えてね。ずっと応援してるから」

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