第4話 自由への翼(後)

 鎌倉駅に近いレンタル店でクロスバイクを借り、亜弓は海岸沿いを由比ヶ浜から湘南海岸公園まで来ていた。そこから展望灯台に行って海を眺めているか、水族館でいつまでもクラゲのたゆたう姿を見ているのが、いつもの休日のパターンだったが、三年間勤めた会社を、次のあてもないまま辞める決心を固めるには、なるべく人目をさけて、ただ風に吹かれていたかった。

 三月の終わりにしては、肌寒い昼下がり。桜らしき樹を途中で何度か見かけたが、ちらほらとも咲いていなかった。道行く人はまだダウンジャケットとか厚めのコートを着ている。亜弓はほぼ寝間着のスウェットにウィンドブレーカーという出で立ちだったが、今日は寒すぎたと湘南に着いてから後悔した。

 関西に住む姉は、いつでも帰っておいでと言ってくれた。来るとか、戻るとかじゃなくて、帰ってきたらいいよと。そうだな、帰る場所があるって、それだけで幸せなんだろうな。それでもまだ、気持ちが整理できないまま、温かいロイヤルミルクティーが飲みたいなと思って自販機を探していた。

 背後から何か集団が来る、と感じて振り返ったとき、ロードバイクに乗った十数人が一列を保ったまま、目の前を次々に通り過ぎる。運ばれてきた風には、心なしか花の香が淡く溶け込んでいるようで、集団の放つ明るく爽やかなエネルギーが、亜弓には同化できない遠い異質なもののように思えた。

「はい、いったんここで止まって。後ろの方も、近くに集まってくださいね。どうも今日はお疲れ様でした。お花見もしたかったけれど、まだちょっと早かったですかね。また来週あたり、お誘い合わせて来てみてください。皆さん、今日一日ですごく乗り方も上手になりました。事故もパンクもなくて、本当に良かったです。じゃ、ここで解散します。レンタルの方は、まだちょっと時間がありますので、あと三十分くらいですかね、三時までにお店に戻しておいてください。はい、お疲れさまでしたー」

 四十代の、小柄ではつらつとした男性が、集団に向かい笑顔を見せ、よく通る声でツーリングの終わりを伝えている。この近くのレンタルバイク店の人なんだろうか。日に焼けて引き締まった身体は、いかにもスポーツ選手のようだ。何となく興味を抱いたものの、どちらかというと人見知りの亜弓は、普段自分から知らない人に声を掛けることはしない。ただ、あと数日でこの町を離れる身となって、何となく人恋しい気持ちがあるのも間違いなかった。

 自販機を探しながら、鎌倉方面まで戻ろうとこぎ出してから、後輪がぺしゃんこにつぶれているのに気づいた。パンク?え、来るときは何の異状もなかったし、何かを踏んだこともないはず。どうしよう、自転車屋さん、あ、そうだ。亜弓が振り返ると、先ほどの男性と、ちょうど目が合った。八代店長との出会いだった。

           *

「へえー、その店長さんって、イケメンなの?独身?」酔った陽子は亜弓の話の腰を折るが、そういう場合は適当にスルーしても構わない。

 結局、亜弓の乗っていたレンタルバイクは、単に後輪のバルブが緩くて空気圧が下がっていただけで、パンクではなかった。

「うちはいわゆる自転車屋じゃないんで、修理とかはしてないんだけど、毎日何人か、パンクですって持ってくるね。そのうちの半分は、こんな感じで、ただ空気が抜けてるだけなんだ」

 背中のポケットから小さなインフレーターを取り出し、八代店長は気軽に空気を入れてくれた。あまりに手慣れた所作だったので、それが女性には苦行ともいえるほどの力業であったことは、亜弓はまったく分からなかった。

「これ、鎌倉駅前のお店のやつでしょ。シールで分かるよ。クロスもいいけど、ロードに興味ある?さっきの人たちは、みんな初心者で、今日初めてロードに乗った方ばかりなんだよ。みんな楽しそうだったでしょ。よかったら、うちの店がすぐそこだから、見るだけ見ていかない?」

 輪芸寺サイクリング。八代の店はほとんどショールームであるが、販売はしていない。ロードバイクをはじめとするスポーツサイクルを使って、イベントを企画催行し、充実したライフを提案するショップである。気に入ったバイクがあれば無料で試乗させてもらえるというので、亜弓はレンタルバイクの返却時刻を気にしながら、お言葉に甘えることにした。

 八代店長がロードレースの元選手で、日本代表としてオリンピックに出て、当時はヒルクライマーとして世界でも指折りのすごい人だという事実は、後で常連さんから聞いた話である。飲食店でもないのに常連とはおかしい気がするが、スポーツサイクルショップには、特に用事もないのに頻繁にやってきては店主や他の常連と雑談している客がよくいる。それが一見客には敷居が高くなるという弊害も生んでいる。

 身長と股下、肩幅と腕の長さを測られる。恥ずかしかったが、あまりのスムーズな作業に、抵抗すらできない。じゃ、これでどうでしょう、と渡されたミントブルーのバイクは、とても可愛らしかった。持ってみるとすごく軽い。これでもミドルグレードだと言われたが、八キロ余りだという。よしっと嬉しくなって、またがってみる。

 こわい、こわすぎる。これは無理。ブレーキの掛け方とリヤの変速方法だけを教わり、店の周囲をくるっと回って来た時、亜弓は自分が乗るものじゃないと即断した。上体が前傾して前しか見えなくなる。ブレーキレバーを縦に引いたことなどないこともあり、減速しづらい。ハンドルを切ったらこけそうになる。タイヤは細すぎで、一踏みですごく進むから、そのスピード感だけでこわい。サドルは高すぎで、止まった時に足の裏が地面に着かない。右足を大きく回して降りようとすると転びそうになる。これでスキーみたいにビンディングペダルだったら、足がうまく外れずに落車することは間違いない。

「よくそれで買う気になったわね。ま、初心者あるあるって感じだけど」

 自分が初心者時代のことは棚上げにして、陽子がころころと笑う。

「ありがとうございました。また、考えておきます。ところで、これ、何でアンカーって言うんですか?」

 こわかったと素直に言えないまま、適当に話を混ぜ返して帰ろうとした時に、八代は真顔で答えた。

「僕もこのメーカーの所属選手だったんだけど、ネーミングの由来は聞いたことないね。陸上競技で最終走者ってことだから、一番速いってイメージを掛けてるのかもしれない。でも、僕はもともとの錨っていう意味の方が好きだな。実はロードに乗る人って、何かしら現実生活で生きづらさを抱えてる人が多いんだよ。自分ひとりだと、ついふらふら本来歩む道から外れてしまう弱い僕たちを、大地につなぎ止めてくれる、ここが自分の居場所なんだって教えてくれる、そんな相棒のような気がするね」

 早く帰ろうと思っていた亜弓の心が止まった。

「それにね、居場所って言っても、不動じゃないんだ。自転車は止まったら倒れちゃうしね。それに前にしか進まない。エンジンもないから自分の足で、自分の力で前に進み続けるしかない。自分の本当の居場所は、進み続けている自分自身なんだ。僕はそういう意味だと思ってる。」

 八代の言葉がしみ通り、亜弓はこのアンカーを手に入れようと決めた。

「自転車は自由への翼なんだよ。翼があることと飛べることは違う。じっとしていては自由になれない。自分でしんどい思いをして、翼を羽ばたかせないとだめなんだ」

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