第3話 自由への翼(前)

 陽子のマンションは、殺風景とも言えるが、良く言えば整頓されており、清潔感がある。調度類が少なく、カーテンやクロスもベージュ系の単色で、薄いブルーの布団カバーも女子っぽくない。亜弓のために、物置代わりにしていた四畳半の洋間を空けてくれたのだが、陽子の寝室にある小さなクローゼットだけでは、収納が足りないのじゃないかと、亜弓は申し訳なく思った。

「ううん。あのね、モデルって、実はほとんど私服要らないんだよ。もちろんオシャレして来る子は多いけど、わたしくらいになると、別に誰も期待してないんじゃない?いつも現場にはジーンズとスエットとかで行ってるし。スタッフも長いこと一緒にやっているから全然気を遣わなくて済むしね」

 ビールからワインを経て、冷酒に切り替えた陽子は、一日のアルコール摂取量を五十グラム以下にしているとか言いながら、多分とっくに越えている。ご機嫌で冗舌な姉の様子を見ながら、亜弓もつい調子に乗って、普段は飲まない日本酒をお相伴した。

 閃太郎の持ってきてくれた寿司は、かんぴょうを煮たり、炭火で海苔をあぶったりするのも、アルバイトというか見習いの彼がやっているらしい。亜弓には何がすごいのか、実は何の違いも分からなかったけれど、確かに美味しかったし、ちょっと大げさに、すごい、やっぱり本当の江戸前は違うよね、とか適当にほめておいた。その場の空気を悪くしないことが何より重要な女子トークではよくあるパターンである。お腹もふくれたし、買ってきた食材を明日の献立に回せるのは、単純に助かった。

「さっきの話だけど、ローラー、いつもやってるの?あ、美顔ローラーじゃなくて、あのローラー台。ちょっと見たこと無いタイプだけど」

 亜弓が知っているのは、後輪のクイックハブを両側から挟みつけて固定し、前輪はタイヤの形にくぼんだ樹脂製の台にそのまま乗せる、昔から一般的なタイプである。八畳ほどの狭いLDKの窓側に設置されているのは、実走感を再現するために、前輪を外してフォークエンドに固定した部分が、エストラマーという、通常は振動吸収に使われる柔軟な素材でできており、ペダリングに合わせて、わざとハンドルが不安定に揺れるようにできている。

「うん、普段はさぁ、休みの日しか乗れないでしょ。わたしは土日、あんまり関係ないけどね。夜とか怖いし、雨が降ったり、暑すぎたり寒すぎたり、とにかく外に出たくない日って、結構多いじゃない。私も最初はローラー練なんて、嫌だなと思ってたけど、ズイフト始めてから楽しいよ」

 ズイフトは、有料のトレーニングアプリである。ローラー台とワイファイ環境、ブルートゥース対応のパソコンかタブレット(スマホでもできなくはない)があれば誰でも使える。会員登録手続や画面上の表示はすべて英語だが、そんなに難解ではない。毎日なにかしら開催されているバーチャルのレースイベントやワークアウトプログラムに自由に参加でき、ローラー台をこぐことで、画面上に反映された自分のアバターを走らせるのである。

 RPGのように刻々と背景が流れていく画面には、世界中から参加した他のアバターが一緒なので、遅れまいとして、本気で踏まざるを得なくなるため、自然とトレーニングになる。走行速度や出力、タイムや順位などが画面に表示され、自分のフィジカルの実力が分かる。参加賞や、レース結果が良ければ、レアなジャージとかの賞品をもらえたりする。日本でも、実業団選手だけでなく、アマチュアの間にも広まりつつある。

 陽子が使っているフレックスというローラー台には、ズイフトのプログラム進行に対応する自動負荷加装置を付けてあるので、上り坂の場面では負荷が重くなったりする。中には、路面の勾配に応じて、車体前部を自動で上下さる装置や、速度に対応して風力が変わる扇風機も売っているらしい。ローラー練は、真冬でも大量の汗をかくので、扇風機は必需品である。

 亜弓は、ほろ酔いでさらに冗舌になった陽子の説明を聞きつつ、独身のアラフォー女子が夜中にリビングで、ぼたぼた汗を落としながら自転車をこぎ、一人で荒い呼吸をしている姿を思い描き、やっぱり自分は真似できないな、というか、真似したくないかも・・・と思った。

 それよりも亜弓の目を引いたのは、壁際に掛けてある黒いマシンである。獲物に襲いかかる瞬間の、チーターの前足を連想させるフロントフォークの曲線が美しい。とても強そうにも見える。太くて角張ったダウンチューブに記されたDOGMAの文字。「教義」なんて上から目線で、いかにも偉そうなネーミングだけど、それだけのポテンシャルがあるのだろう。陽子は、よくぞ聞いてくれましたとばかり解説する。

「これね、前後のサスペンションを電子制御するタイプなの。ヨーロッパって、普通の舗装道路は日本の方がよっぽど路面がいいのよ。石畳が続いたり、プロのレースでもわざとそんなコースを設定するしね。だから、サスの役目は乗り心地を良くするためじゃなくて、路面とタイヤの接地状況を高めて、ペダルを踏んだトルクをできるだけ逃さないようにするわけ。要するに速く走るための装備なの」

 速くなりたいという陽子の思いは分かった。選手でもないのに、という言葉はさすがに口にできない。趣味なんて、自分の気が済むまで極めればいい。

「でも、どうして自転車やっているって、教えてくれなかったの?」

 自分のことはとりあえず置いておいて、亜弓は聞きたいことだけを尋ねる。

「そりゃね、わたしも最初はお仕事だったのよ。イタリアに撮影に行ったりした話はしたでしょ。あれ、ツールドフランスっていう、世界一の自転車レースのコースを走るイベントに行くことになって、現地で貸してもらったイタリア製のバイクがとにかくイケメンで、このドグマの前のモデルなんだけどね。最初は乗るのも怖かったけど、ああ、自分もこうやって山とか走りたいなって思ったから、とりあえずこっちのお手頃なフェニックスを買ったのよ。そのうちにどんどんはまっちゃって、この子も一緒に暮らすようになったわけ。亜弓に言ってなかったのは、別に隠してたんじゃなくて、続けられなくなったら格好悪いし、インスタとかにアップしないといけないとか、義務でもないプレッシャーが嫌だったし」

 ツールドフランスって、フランスに行ったんじゃないの?イタリアワインを飲みながらイタリアンバイクを語る陽子の話はだいたい分かったが、多分陽子ほど酔っていない亜弓には、少し引っかかる言葉があった。

「でも、なんで山を走りたいの?しんどいじゃない」

 亜弓はそもそも運動は好きでも得意でもない。鎌倉でロードバイクを買ったのも、ほんの偶然や成り行きだと思っている。ラクして速く走りたいなら分かるが、わざわざ辛い思いをしに山を走ろうとする人の気持ちは理解できない。

「レースとか、落車してケガしたら、仕事ができなくなるでしょ。それに、自転車はね・・・自由への翼なのよ。自分の力でどこまでも行ける。人との競争じゃなくて。走れば走っただけ、自分が解放される。そう思わない?今度は亜弓の話も聞かせて」

 自由への翼。その言葉で亜弓は思い出した。まったく同じ言葉を、鎌倉の八代店長が言ったのを。先週の納車の日にあいさつした時の、彼の穏やかな笑顔を思い出し、もう一度会いたくなって、亜弓の眼から少し涙がこぼれた。

「そうね、その通りだと思う。でも、うまく言えないけど、自由になりたいとか、自由がいいとか、そう思えない部分がどこかにあるんだよね」

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