第2話 もう一つの実家(後)
寒暖の差が大きい時候であるが、この日は東の空に大きく横にふくらんだ橙色の満月が浮かび、風もなく、スプリングコートも要らないような宵である。亜弓は、陽子と連れだって、先ほど上ってきた坂を、両手にスーパーのレジ袋を提げ、今度は軽やかな足取りで歩いていた。
「だって、びっくりしたよ。陽子が自炊苦手なのは知ってたけど、冷蔵庫開けたらお酒とチーズと豆乳しか入ってないんだもん」
亜弓は傍らの陽子に、軽く肘をぶつける仕草をしてみせる。
「あぁ、あと野菜ジュースと、冷凍庫にササミの茹でたのもあるんだから。ちゃんとチェックしておいてよね」
陽子も気を悪くした様子はなく、何だか嬉しそうである。
「それと、プロテインの大袋に、何あれ、サプリメントの屋台みたいなキッチンカウンター。モデルの仕事って、普通のごはん食べちゃダメなの?」
陽子は一瞬、一から説明しようかと思ったが、面倒なのと、自慢話になるのも嫌なので、ただ笑って「まあね」と返事をした。
ほとんど主食になっているホエイプロテインは、大豆から作られるダイエット目的のソイプロテインとは、摂取目的からして違う。乳清から生成するホエイプロテインは、トレーニングでいったん破壊した筋繊維を、運動直後に摂取することで、超回復を助け、筋肉を太く、強くする。ドラッグストアやスポーツ用品店で簡単に入手できる製品は、ほとんどがWPC(ホエイプロテインコンセントレート)製法であるが、乳糖が濾過されていないためにタンパク質含有量が低く、さらに牛乳が苦手な人は下痢をしやすい。
アスリートの間で主流といえるWPI(アイソレート)製法によるものは、糖質をカットしており、その中でもいくつかの製法がある。陽子が常備しているのはWPIプロテインの他に、筋肉を効率的に作るためにロイシン代謝物から作ったHMB(ヒドロキシメチルブチレート)のソフトカプセルや、血糖値が急激に上がらずエネルギーになるマルトデキストリンとしての粉あめ、あとは多種類の植物を長期間発酵させた酵素ゼリー、体脂肪を効果的に燃焼させるために必要な油脂分として、毎朝交互にスプーン一杯飲んでいるオメガ3系のエゴマ油と亜麻仁油、野菜ジュースでは野菜不足を補えないので、気休めの粉末青汁などである。
ただ、酒はなかなか止められないようで、発砲ビオワイン、ピルスナーやエール系の麦芽百パーセントのビール、それに純米無濾過生原酒はいつも冷えているが、普段はBCAA(分岐鎖アミノ酸。バリン、ロイシン、イソロイシン)とクエン酸入りのスポーツドリンクを飲んでいる。ほかに食べるものといえば、アミノ酸入りのゼリーや行動食としてのプロテインバーくらいであり、要するに、亜弓がやってきて、同居祝いに家呑みで一杯やろうとしたのは良かったが、チーズと冷凍ササミくらいしか酒のアテもなく、外食費ももったいないので、駅の裏手にあるスーパーに、二人して買い出しに行ったのである。
短くて、やや急な坂を上りきり、亜弓は眼下の町を振り返った。この町で暮らした月日は二十年ちょっとになる。父親のことはほとんど何も覚えていないし、仕事か何か分からないが、父は普段からあまり家に寄りつかなかった。子どもの頃は何も思わなかったけれど、離婚してから養育費の送金も、面会交流の申し出も一切なかった。母は何も言わなかったので、離婚の原因は聞かなかったし、今さら知りたくもないけれど、結局自分に父はいなかったんだ。母は派遣の仕事を掛け持ちして、家事も子守もあまりできなかったから、十一歳年上の陽子が母親代わりになってくれた。当時中学生の陽子が、未成年者だから本当はダメなのかもしれないけど、毎朝保育園に送ってくれて、夕方も迎えに来てくれた。陽子は部活をしたくないからと言ってたけど、それは絶対ウソだ。
陽子が祖父母に引き取られてから、母と二人で大学卒業まで暮らした市営住宅は、確かに亜弓の実家だった。保育園や小学校、中学校で仲の良かった友だちも、まだ何人かは周辺に住んでいるはずだ。母が元気な頃はママ友つながりで、たまにバーベキューや動物園ハイキングなどの企画に呼ばれていたけれど、母がいなくなってからは、亜弓自身が心を閉ざしていたこともあり、一年もすると、次第に誰も何も言ってこなくなった。もうあそこは帰るべき実家じゃなくなった・・・
母が亡くなって振り込まれた、悲しくなるほど少しの保険金は、亜弓が受取人だった。後で思ったことだが、これも本当は陽子と半々に分けねばいけなかった。同じ市内でいくつか安いアパートを移ったが、何だかこの町に居てはいけない気がして、逃げるように鎌倉の会社に転職したのである。あの時は、もうこの町に戻ることはないだろうと思っていたけれど。その後に陽子が祖父母宅から出ていった経緯は、これも聞いてはいけない気がして、尋ねたことはない。
「ねえ、今後の家事当番のことは、また話し合うとして、今日は私がご飯作るよ。とりあえずハモキュウと、スライスタマネギどっさりの鰹のたたきで、おねえちゃん一杯やっといて。その間にソーミンチャンプルーでも炒めるからさ。簡単だよ、やっぱり一緒に作る?」
一人しんみりした気持ちを切り替えようと、意識して明るい口調で言ってみた。亜弓は普段、陽子のことは名前で呼ぶ。きょうだいだけれど、きょうだいになりきれていない距離感がそうさせている。たまに無意識におねえちゃんという言葉が口をついて出るのは、甘えたいけど素直に甘えられなかった幼少期のちくちくした感傷が、陽子の居るところこそが自分の実家なんだという安堵感で溶け出したせいなのだろう。
「ありがとう。じゃ、今日は頼むわね」
にっこり笑った陽子が玄関ドアの鍵を開けようとした時、大型バイクの重厚な排気音が近づいた。フルフェイスのバイザーを上げると、表情は見えないが二十代の男の子だった。
「あ、やっぱり陽子さんだ。留守だったから、帰ろうとしたんですけど、今お戻りですか。ちょうど良かった。これ、店のお土産。おれが作ったバラちらしと、巻きずしです。今日、あんまりお客さん来なくて。余ったシャリで練習ってことで作らせてもらったんで、ちょっと冷えて固いけど、良かったら食べてください」
「まあ、閃太郎くん、ありがとう、嬉しい。ちょうど晩ご飯作ろうと思ってたところ。うち、いつもご飯ものがないからね。玄米炊いたらいいんだけど、あれ、はっきり言って美味しくないしね、本当に助かるわ。あ、こちら私の妹。亜弓っていうの。今日から一緒に暮らしてるのよ」
陽子の目尻が下がっているのは、本当に喜んでいる証拠である。ちょっと距離感がある言葉遣いや、ボーイフレンドにしたら、若干年齢差があるような気がして、二人の関係が気になったものの、いずれ陽子が話してくれるだろうし、そのうち分かることだからと思って、亜弓は青年に軽く会釈だけした。
音塚閃太郎はヘルメットの中で、首筋からこめかみに冷たいものがはい上がってくるような軽い恐怖と混乱を覚え、あいさつもそこそこにバイザーをおろし、排気量を千五百にボアアップしたスーパーバイク、ハヤブサのスロットルをひねり、きびすを返すように走り去った。
(表札に武智ってあったから、まさかと思ったけど。アユミって、じゃあ、あの人がタケチアユミなのか。年齢的にも、多分間違いない。陽子さんの妹?なんでそういうことになるんだ。そう、あの人なんだ。生きてたんだ・・・)
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