第5話 深夜のスカイプ(前)

 春休みということも関係あるのだろう、平日とはいえ、川沿いのサイクリングロードは、自転車専用といいつつ、ジョギングしている人たちや、犬の散歩で横切ってくる人、朝の体操が終わってぞろぞろ帰って行く年配グループ、河川敷の広場でサッカーや野球の練習をしている子どもたちや付き添いの父兄らとしょっちゅう出くわす。同一方向を低速で移動中の自転車は、ただ右側から追い抜けばいいが、対向路線を併走している中高生も少なくなく、一向にアベレージスピードが上がらずに少しいらついている様子の陽子だった。

 後ろにくっついているだけの亜弓だったが、時速二十五キロ前後の巡航は初心者にも何とかついて行けるペースであり、助かった。ただ、年度末に終わらなかったのか、ところどころで続いている路面工事のために、未舗装の河川敷まではみ出さなければならず、轍にハンドルを取られるので、快適なポタリングとはいえなかった。

 亜弓が姉のマンションに転がりこんだ翌日、陽子の仕事が入ってなかったこともあるし、昨夜のアルコールを、汗をかいて流したいということもあったのだろう。陽子から山、それもいきなり標高九三一メートルの六甲山に上ろうと誘われた亜弓は、先週アンカーを買ってから、まったくと言っていいほど乗っていないのは事実なので、慌ててヒルクライムを断る言い訳を探した。

「えーっとね、ほら、わたし花粉症じゃない。ちょうどこの時期さぁ、ヒノキ花粉がだめなんだよね。え?六甲にヒノキはないって・・・いやいや、飛んでますって。昨日から鼻づまりと鼻水ぐしゅぐしゅだよ。それにほら、中国から黄砂も飛び始めてるじゃない。とにかくさ、山とか、高くて風の吹いているところはヤバいんよ。今は無理無理」

 アンカーの実質的なシェイクダウン。陽子としても、間近でこの国産ロードバイクのマスターピースと言われるマシンの走る様子を見たかったこともあり、今日は山を無理強いするのはやめておいた。

 オーロラホワイトと呼ばれるフレームは、真っ白なのに、太陽光を受けてほんのりとピンクの蔭が差す、上品でかわいらしい塗装だった。ブレーキと変速のアウターワイヤーに前後輪のハブが白、ハンドルバーテープやサドル、リムとタイヤにギヤクランクと変速機を黒とし、パーツの一部に赤で差し色を加えたマシンは、清楚さとクールな雰囲気が同居している。

 白地に黒のジャージをコーディネートした亜弓は、初心者とはいえ、格好だけはさまになっている。ただ、ライディングフォームは全然ダメだ。体幹とか、四肢の筋力が絶対的に弱いのだろう。ハンドルに寄りかかるように肘を突っ張り、踵を落とし気味に大腿四頭筋を酷使して踏み込むような、とても使えないフォームである。平坦なサイクリングロードでスピードを加減している陽子であったが、それでも亜弓が何とかついて来られるのは、推進力最大化解析技術・プロフォーマットという、電子制御サスのように、ぱっと見では分からないが、膨大な走行テストとコンピュータシミュレーションを地道に重ねて開発された、駆動力をロスなく伝えるフレームのおかげである。

 後で陽子が試しに乗ってみたところ、サスペンションに頼ることなく、ソフトかつしなやかで、路面の情報をマイルドに、しかもデフォルメせず丁寧に乗り手へ伝えてくる感触に少し驚いた。もともとレース用に開発された解析技術なのだが、疲れにくいという意味ではロングライドに最適ではないか。目立たずすごいというのは、日本の職人技、匠の芸という感がある。

 陽子にしたら軽い足慣らし、亜弓にとっては緊張と心身共に激しい疲労のライドを終えてマンションに戻り、先にシャワーから出てきた陽子のスマホにメールが入っていた。亜弓は八代店長の助言を守り、ライド直後の手入れとして、まず雑巾でタイヤとリムを丁寧に拭き、砂粒などが咬んでないかをチェックし、チェーンを乾いたぼろ布でしごいて黒い油汚れを落としてから、パーツクリーナーのスプレーを吹き付け、使い古しの歯ブラシで軽くこすり、もう一度布で拭き取ってから、ドライタイプの潤滑油を注していた。

「へえーっ、亜弓、君世さんって知ってる?プロレーサーの田中選手と結婚して、最近あんまりメディアに出ないけど」

 先週ロードバイクを買ったばかりの亜弓が、女性自転車タレントの草分けと言うべき君世について、聞いたこともないのは無理からぬことだった。

「高校が一緒でね。すっごく頭が良くて、その頃はお互い顔見知りって程度で、彼女が東大に行ってから二十年近く、一度も会ってなかったの。それがさ、三年くらい前にサイクルモードにゲストで来てて、館内ミニツアーとかの引率をしてたのよ。サイクルライフナビゲーターって、あなたの八代店長も、やっている方向性はちょっと近いかもね。そんなことしてるなんて全然知らなくて、もうびっくりしたんだけど、わたしから声掛けたら、覚えててくれて、それからたまにメールのやりとりしてたわけ」

 子どもが生まれてイベント活動などからほとんど身を引いていた君世は、子育ての合間に、好きな歴史の研究をしているらしい。それでこのたび、大変なことが分かって、メールで伝え切れないから、今晩遅くにスカイプして良いかと尋ねてきたのだ。

 昼間は陽子の留守番として、専業主婦よろしく洗濯や掃除、買い物に出たり、近くの図書館に行ったり散歩したりするうちに過ぎていく。夕方からは食事の用意をしたり、風呂に入ってのんびりしても、テレビを観たりゲームをする習慣がないので夜はすることがない。就職活動をしなければならないのは分かっているが、今しばらく気力が出なかった。

 もともと亜弓は早寝早起きで、できれば夜は早く寝たい。でも、肌に人一倍気を付けているはずの陽子が、興味津々で酒も飲まずにテレビ電話を待っている以上、先に休むわけにもいかなかった。君世は、最近子どもが宵っ張りになってきて、なかなか寝付いてくれないので、午後十一時は回るだろうということだった。実際にスカイプがかかってきたのは、午前零時になる直前である。

 ディスプレイに映った女性は、目がくるっと大きくて、ほとんどすっぴんだろうが肌つやの良い、笑顔の素敵な、それでいて聡明そうな雰囲気である。いきなり君世が切り出したのは、古代中国の易経の話だった。

「説文解字って、知ってるよね。後漢の許慎が編纂したやつ」

 陽子は高校時代の世界史は選択していなかったし、習ったとしても当然覚えてはいない。まともに質問したら君世の博識や頭の回転の速さには絶対かなわない。知らない、と言うのは簡単だけれど、それを言ってしまうと一から解説されても困る。

「ごめん、君世さん、わたしに関係ありそうな点だけを、簡単にお願いできるかな?」

 君世は性格としては温厚な部類である。機嫌を悪くした様子はないが、自分が伝えたいことを整理する間も惜しんで陽子にスカイプしたものだから、陽子や、傍らで見ていた亜弓にも、支離滅裂な印象を与えることとなった。

「あのね陽ちゃん、今年の夏至の日なのよ。千載一遇のチャンスっていうこと。この日に、体力と努力と根性次第で、あとちょっぴり運も必要かもだけど、魔法が使えるかも知れない。時間と空間がつながって、何でも願い事が叶うのよ」

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