第70話 No Hitter(ノーヒットノーラン)

『9回表、ハードバンクホークスの攻撃は、1番セカンド・周西しゅうせい』 


 ウグイス嬢のアナウンスに外野席の半分以上を埋めた敵チームのファンから大歓声が巻き起こる。

 本拠地にハードバンクを迎えた3連戦の初戦、相手チームのエース・万賀まんがと俺の息詰まる投手戦は、初回にLoosersがもぎ取った1点を守ってここまで1-0で進んでいた。

 ハードバンク打線は8回終わってノーヒット、俺が許したランナーはエラーとフォアボール2つの計3人だけ、ノーヒットノーランを継続中だ。

 本来のリリーフエースである藤田が今日から復帰しているが、俺はマウンドを譲る気はサラサラ無かった。


 最終回の攻防を前にマウンドに集まった野手は、口々に俺をけしかける。

「おい、ここまで来たらもう狙ってけ!」

「そうだぞ、病院であの子に自慢してやれ!」

「うす!」


 いつもの少年が最近応援に来ない事はチームでも気にしている人が多かったらしく、昨日病院から帰って来た俺は質問攻めに合った。

 今日の試合に勝てば、皆が書いた寄せ書きとウイニングボールを俺が病院に届ける役目になっている。


(だから必ず抑える)


 そのためにもまずこの打者だ、俊足の周西を万が一にも塁に出してしまうと何を仕掛けてくるか分からない。


(万が一なんてさせるか、万がゼロだ!)


 キャッチャーの小島も同じ気持ちなのだろう、初球は緩い変化球ではなく、いきなりインハイのストレートのサインだ。

 大きく左足をあげてテイクバックを取ると、腕をムチのようにしならせて第一球を投じる。

 野獣の咆哮ほうこうを思わせるうなりを上げて胸元を襲うストレートに、周西は全く反応できない。


「ストライッ!」


 オーバーアクションのコールに盛り上がるスタンドを背に、二球目も同じくインハイ、ややボールよりのストレートで空振りを奪うと、三球目のサインはまたもインハイのストレートだ。


(カスらせもするもんか!)


 魂を込めたストレートがまたも周西の胸元を襲い、ナチュラルにシュートしたボールがゾーンギリギリに決まった。


「ストライッ!バッターアウト!」


 俺はテレビカメラを意識して、右手の人差指と小指を掲げて見せる。

 きたはらくんに送る【あと2人】のサインのつもりだ。


『二番ファースト・下村しもむら


 ウグイス嬢のアナウンスに、意気消沈しかけていたハードバンクの応援団が息を吹き返した様に騒ぎ出した。

 それと同時に、俺の脳裏には直前の対戦での苦い思い出が蘇る。

 前回の対戦で、俺は下村・八名田やなたの2人にたった2球で試合を振り出しに戻されていたのだ。

 下村にもその時のいいイメージが残っているのだろう、落ち着いた仕草で打席に入ってルーティーンをこなしている。


 俺は、肺の中の空気を全部出しきる様に深く息を吐くと、キャッチャーのサインを見た。

 初球はストレートのサインだが首を振ってナックルカーブを要求する。

 比較的早打ちの打者が多いハードバンクにあって、下村は選球眼も良く待てる打者だが、俺との対戦の時は何故か早打ちが多い。

 前回も初球をやられている。


(いいさ、初球から打って来い!)


 大きくゆっくりと振りかぶると、リリースの瞬間に右手の人差指で弾く様に回転を掛ける。

 高めのやや外寄りのコースから滑るように鋭く曲がる軌道に、上体をらす様な姿勢でスイングした下村のバットは辛うじてボールを捉えたが、ボテボテのゴロはセカンドの有田が余裕を持ってファーストに送球した。


「バッターアウト!」


【あと一人!】

 一塁塁審のジェスチャーを確認するまでもなく、俺はテレビカメラに向けて人差指を掲げる。


『三番センター・八名田やなた


 9回裏ツーアウトランナー無しの絶望的な状況でも一振りで試合を振り出しに戻す八名田の登場に、ハードバンクファンの声援は祈りとも怒号ともつかない様な声援をあげ、Loosersファンのノーヒッター誕生に期待する声援とぶつかり合う。


 熱狂のるつぼと化したスタンドを背に、俺は目を閉じて深呼吸をしてアドレナリンを抑えた。


(興奮しすぎるな! 体は熱く!頭は冷静に!

 考えすぎるな! 体の声を聴け!神経を研ぎ澄ませて感じろ!)


 自分に言い聞かせると、キャッチャーのサインを確認する。

 第一球はアウトローのストレートだ。

 呼吸を落ち着けてミットを見つめた時、俺は不思議な感覚に襲われた。

 あれだけ鳴り響いていた声援が静かになり、八名田の息遣いが聞こえてくる。

 バットのグリップを上げて構える衣擦きぬずれの音さえ聞こえてくるようだ。


明鏡止水めいきょうしすい


 昔何かの本で読んだことがある、達人だけが到達する無の境地。

 不思議な感覚に支配されたままワインドアップした時、わずかに動いた八名田の腕の筋肉が俺に告げた。


(マズい、ストレートを待ってる!)


 素早いテイクバックから振り降ろした腕から、弾丸の様なボールが発射され、八名田が待ち構えるアウトローに吸い込まれる。

 強烈なアッパースイングがボールをとらえたと思った瞬間、ボールがススッと落ちてバットの下っ面をかすめた。


【スプリット】


 咄嗟とっさに握りを変えたせいで、落ち方は少なかったが、狙いを外すには充分だった。

 力なく跳ねたボールを軽くステップして捕球すると、丁寧にファーストへ送球する。


「ゲームセット!」


 審判のコールに、俺は感情を爆発させてけものの様に咆哮ほうこうした。

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