第39話 Trap(罠)
山の朝は早い。
研ぎ澄まされた冷気が夜の終わりを告げ、身震いして目を覚ました俺はペットボトルの水をコップに移し、カセットコンロにかけて火をつける。
いつの間にかタヌキは出て行ったようだ。
念のため食べ物や飲み物はリュックに仕舞って枕元に置いておいたが、荒らされる心配はなかった様だ。
(よし、やるぞ!まずは野球だ、目指せ新人王だ!)
決意も新たに、お湯が沸く間に野田から貰ったトレーニングメニューの冊子に目を通す。
「なになに?これから迎えが来るまではパワーアンクルを着けて過ごす事?」
リュックを
取り出してみると、両足に10kg、両手に5kgずつと腰に20kg、計50kgの重りだ。
「道理で重い訳だ、こんなもん入れてやがったのか!」
文句を言いながらも素直に着けてみると、ずっしりとした重みが体の自由を
更に、汚れが浸み込んでドス黒くなった硬球が2つ、どちらも中に鉛でも入ってるのかと疑う程重い。
「なになに?このボールで1日50球、ストレートのみ投球練習する事?」
(裏の崖相手にキャッチボールやれってか?
まさか、こんな漫画みたいな事をさせるとはな…、確か世界的人気サッカー漫画でタンクトップの少年が重いボール蹴ってたよな…)
そんな事を思いながら冊子のページをめくった俺は思わず自分の目を疑った。
(なんだ?これは!?)
『イノシシの
ご丁寧に罠の作り方と捉えたイノシシの捌き方が図解で
(一体何のトレーニングをさせるつもりだ??)
当然の疑問だろう。
だが、この冊子はその答えをくれそうにない。
(そうだ、待てよ)
昔見た映画に似たようなシーンがあった。
いじめられっこの少年が空手を習っていじめっこを倒す映画で、
内心では半信半疑だが、こうなった以上やるしかない。
その間に罠作りに必要な捕獲セットを小分けにして準備をした。
口をつけられる程度になったコーヒーを一口に飲み干すと、熱い液体が体内を駆け巡り、活力が湧いてくる。
山小屋の脇に立て掛けてあった
初めての経験なので、とりあえず適当な場所を決めて落とし穴の罠を仕掛ける事にした。
単純な落とし穴ではなく、括り縄を併用したものが効果があるらしく、
(気が効くというかなんというか…)
苦笑を浮かべながら穴を掘りにかかるが、これがなかなかハードだ。
ただでさえ慣れない穴掘りの上、50kgもの重りを付けていては、ひとかきするだけでも重労働だ。
あっという間に汗だくになったので上着とTシャツを木の枝に掛け、上半身裸で作業を行う。
(これだけでも充分山籠もりの効果あるだろう)
途中、持ってきた食パンとサンマの蒲焼きの缶詰めで昼食を摂りながら、黙々と作業を続ける。
サンマの缶詰めの残り汁は最後に餌として使うつもりだ。
深さ50cmほど掘った所で、杭を打って括り縄をセットする。
あとは全体に落ち葉を被せてカモフラージュして、括り縄の先に餌を置いておけば一丁上がりだ。
(タヌキくんが引っかからないといいけどな…)
一抹の不安を胸に、一旦山小屋に引き上げようと来た道を引き返していると、
期待と不安を抱えながら駆け戻ると、近づくにつれて濃くなる獣臭が俺の記憶を刺激する。
(これ、もしかして…)
「フゴッ、フゴッ、フギィィイ。」
更に近づくと、怒りと焦りがない交ぜになったような鳴き声が間断なく発せられていた。
確信めいたものを感じた俺は、シャベルで応戦できるよう体制を取りつつ、木陰からそっと様子を伺う。
(やっぱりだ)
罠にかかってもがいているのは、昨日俺を襲ったあのイノシシだった。
俺の心に昨日の恐怖が蘇ると同時に、その恐怖の元が今、目の前で罠にかかっているという現実が交差する。
「フギィィイイ!フギィイイィィ!!」
一際高い鳴き声を上げたかと思うと、なお一層激しく体を捩らせてわなから脱出しようとしている。
(こんな化物みたいなのに暴れられて、あの杭持つのか?)
いや、持つわけない。
俺は恐怖に突き動かされる様にイノシシの前に躍り出てシャベルを構えた。
こいつが罠から脱出する前に殺るしかない。
イノシシは俺の登場に驚いたのかそれとも覚悟を決めたのか、太い鼻息を吐きながらジッと俺を見上げている。
その瞳はビー玉の様に澄んでいて、まるでこれから訪れる死を受け入れているようでもあり、また、俺の覚悟を試す様でもあった。
(何だよ、クソッ!)
迷いながらもシャベルを振り上げた時、イノシシの背後の茂みの中に小さなウリ坊が2匹こちらを見ているのが見えた。
(何だよ、クソッ!)
俺はゆっくりとシャベルを降ろし、イノシシを視界に捉えたままゆっくりと後ずさりしてその場を離れる。
充分な距離を取って木陰に身を隠し様子を伺っていると、程なく俺が打ち込んだ杭はあっけなく抜けた。
足に食い込んだ棘の付いた括り縄を強引に取り外し、ケガと引き換えに自由の身となったイノシシは、片足を引きずりながら2匹のウリ坊と共に反対方向へと去って行く。
去り際にチラッとこちらを振り返ったイノシシと目があった様な気がしたが、それは恐らく気のせいなのだろう。
心身ともに疲れ果てた俺は、山小屋に戻ると小上がりの上に横になった。
放心したように蜘蛛の巣の張った天井を見上げていると、胸のざわつきが次第に治まっていく。
(あいつ、また会ったら今度も襲ってくるのかな…)
小さなウリ坊を従えて、済んだ瞳をこちらに向けたイノシシの姿を思い浮かべ、あれで良かったんだと自分に言い聞かせる。
ふぅっと大きく息を吐いて何気なく窓の外を見ると、昨日のタヌキが罠とは反対の方向に歩いて行くのが見えた。
午後の日差しを浴びて、なんとも気持ちよさそうにトコトコと歩いている。
無性に寂しくなってきた俺は、勢いよく飛び起きるとタヌキの後を追って、まだ見ぬけもの道へと進んで行った。
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