第37話 Crisis detection radar(危機察知能力)

 無理やり置いて行かれた俺は、通りまで歩いてタクシーでも拾って帰ろうかと思ったが、思い直して山を登ってみる事にした。

 命令違反したら立場が悪くなる事は必至だし、何より俺自身が現状にモヤモヤしたものを感じている。


 心を決めると不思議とやる気が湧いて来た。

 目的地の山小屋の位置は地図上では北北西といった所か、リュックにぶら下がっていた方位磁石を腕に巻きつけると北北西の方向をひとにらみする。

 目をらして見ると、深い緑の稜線りょうせんの先に辛うじて山小屋らしきものを見つける事が出来た。


「よしっ!」


 自分に気合いを入れて、雑草をき分けながら注意深くけもの道を進み始める。

 最初のうちはリュックの重さと慣れない、絶えずまとわりついてくる蜂の群れに閉口したが、慣れてくると普通のミツバチは無害な事が分かり、いい旅のと思えるようになる。

 もちろん、スズメバチが相手ではこうはいかないが、今の所は大丈夫そうだ。


 なおも道なき道を歩き続け、酸素の濃い森の空気を全身に取り込んでいると、だんだんと自分が大自然と一体になっているかのように思えてきた。

 鬱蒼うっそうと生い茂る木々の間から時折漏れ出す木漏れ日は最高に気持ち良い。


(来て良かったかも)


 呑気に空を見上げて気持ちを弛緩しかんさせていると、不意に足元の枯葉が音を立てて揺らぎ始める。


(なに!?)


 太い枯れ枝と思って踏みかけたソレは、テレビでしか見た事のない大きさのだった。


「うわぁああおあぁぁああ!」


 大人になるとなかなか叫び声を上げる事はないが、肺の中の空気を出し切らんばかりの叫び声を上げて後方に2mほど飛び退くと、幸いの方も驚いてくれたのか、巨体を滑らかにくねらせてスルスルと斜面を降りていく。

 その後姿を茫然ぼうぜんと見送りながら、猛烈な後悔が胸に押し寄せてくるのを必死に否定する。


「やっぱり帰ればよかったかな…いや、もうここまで来たら行くしかないか。」


 恐怖体験の後は自然と独り言が多くなるものだ。


「集中だ、集中!気配を感じ取るんだ!」


 しばらくの間は、小鳥の羽ばたきやリスの駆け回る足音など、すべての物音にいちいち反応して振り向いたりビクついたりしていたが、1時間もすると自分の中の危機察知レーダーが研ぎ澄まされてきて、危険な気配をなんとなく察知できるようになる。

 そんな俺のが最大出力で危険を知らせて来た。


(何か居る)


 わだちの状況や匂いや音から無意識に判断したのかもしれないが、とにかく前方に危険な気配を感じた俺は、逃げ場を求めて周囲を見回す。


(あの木は登れそうだな)


 ソイツが現れたのは、左斜め前方の斜面に登れそうな木があるのを確認したのとほぼ同時だった。

 鼻を突くような獣臭けものしゅうと共に、右前方の草むらから巨大な毛むくじゃらの塊が姿を現し、シュー、シューと威嚇音を鳴らす。

 まるでこの山の主の様な巨大なイノシシだ。

 たてがみは逆立ち、目に宿る怒りの炎は今にもあふれ出して俺を燃やし尽くさんとしている。


(やべぇ、どこかにうり坊がいるのか?)


 正面の怒り狂うイノシシから目をらさずに周囲の気配に集中すると、俺の背後でかすかな物音がした。


(後ろかよ)


 反射的に後ろを振り向くと、2匹のうり坊が可愛らしい姿を晒している。

 だが、俺の行為はNGだった。


「ブフォォォ!!」


 うり坊への攻撃と捉えた正面のイノシシが、怒りの咆哮ほうこうと共に猛烈な勢いで突っ込んでくる。


「ぎゃぁぁああ!!」


 恐怖で固まりそうな体を悲鳴で起こして、突撃してくるイノシシに向かってダッシュすると、直前で木に飛び移った。

 間一髪、イノシシの突撃は足元を通り抜け、風圧に俺の皮膚は総毛立つ。


 その後もイノシシは必死で木にしがみついている俺を威嚇していたが、やがてシビレを切らしたのか、二匹のうり坊を従えて俺が来た方へ降りて行った。

 去り際にチラッとこちらを振り返るうり坊の可愛らしい仕草も俺にとっては何の慰めにもならない。

 木にしがみついたまま見ていた俺は、本気で帰りたくなったが、今イノシシが降りて行った道をついて行くのはもっと嫌だ。

 とりあえず木から降りて、イノシシが去って行った方向に向かって木の実やら枝やらを投げて威嚇し、イノシシの気配が去ったのを確認すると、一心不乱に北北西へ向かって登り続けた。


 日もとっぷりと暮れてきて焦りを感じ始めた頃、急に目の前の視界が開け、掘立小屋ほったてごやと呼ぶに相応しいボロ小屋が姿を見せた。

 弱々しい夕陽に照らされて今にも朽ち果てそうな風情ふぜいではあったが、今の俺にはどんな核シェルターなどよりも心強く見える。

 俺は嬉しさと安堵のあまり、その場にへたり込んでしまった。

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