第29話 -エースの条件-
「町上め~、俺のスプリットで三振だ~!」
高く上げた左足が壁を蹴り、俺は痛みで目を覚ました。
「痛てて…」
痛みに顔をしかめながら枕元の時計を見ると、デジタルの表示はAM6:35を示している。
電気ケトルに水を入れてスイッチを入れると、狭苦しいユニットバスの洗面器で顔を洗い、インスタントコーヒーの粉末をコップにぶちまける。
テーブルの上に置きっぱなしだったバナナの皮をむいて口に入れると、ノートパソコンの電源を入れて、町上の事を検索した。
町上は高卒二年目だが、一年目はほとんど二軍で暮らしたため新人王の受賞資格を有している。
二年目の今季は開幕からスタメンを飾り、持ち前の長打力で低打率ながらもホームランを量産し、ここまでホームランと打点の二冠を争っていた。
「タイトルでも取られたら二桁勝っても新人王は無理だな…」
弱気な呟きを漏らすと、沸いたお湯をコップに入れ、熱々のコーヒーを口にする。
寝ぼけていた頭がすっきりとして、不思議と気力も湧いて来た。
「なら、こっちもタイトル取ってやる!」
熱い決意と共に火傷しそうに熱いコーヒーを飲み干すと、スーツを着込んで会社へと向かった。
*********
いつもよりも30分早く家を出たので、事務所にはまだ誰も居ない。
普段は電話やら打ち合わせで賑やかな室内に一人でいると、なんとなく気持ちが良い。
(早く来るのもたまにはいいもんだな)
ウォーターサーバーのお湯で溶かした粉末のお茶を啜りながら、のんびりとネットニュースを見ていると、爽やかな声が飛んできた。
「お早うございます!」
「あ、お早うございます!」
挨拶しながら振り返ると北原さんが驚いたような顔をしている。
「鈴木くん、珍しいわね、どうしたのこんな早く来て」
「いや~、早起きしちゃったんで。北原さんこそいつもこんな早いんですか?」
「そうよ!でも、連続一番乗りの記録を鈴木くんに止められるとはねぇ~」
悪戯っぽく笑う北原さんに笑顔で返す。
「大記録を阻むのは大抵伏兵なんですよ、明日からは気を抜かない様に!」
「あ~、偉そうに!鈴木くんこそ明日からもこの位に来なさい!」
「はい、努力しまーす。」
軽口を交わすと、北原さんはコーヒーメーカーの準備に取り掛かる。
「あ、俺やりますよ!」
有無を言わさずにコーヒー豆を取り上げ、慣れない手つきで粉末を計量する俺を、北原さんは後ろから心配そうに眺めている。
「そうだ、北原さん!聞いてみたい事があったんですけど」
「なに?」
「北原さんが考えるエースの条件って何ですか?」
「急にどうしたの?」
「最近、ある人に聞かれたんですよ、それで他の人はどう考えるんだろうって」
「う~ん、エースねぇ…」
北原さんは腰に手を当て、上を向いて考えている。
(こういう姿も綺麗だなぁ…)
立ち姿に見とれて思わず粉をこぼしそうになるのを誤魔化しながら、コーヒーメーカーに豆と水をセットし、スイッチを押す。
「う~ん、実力や実績はもちろんだけど、やっぱり信頼感じゃないかしら」
「信頼感ですか?」
「例えば、野球星人が攻めて来たとして」
「や、野球星人!?」
真面目な顔をして変な事を言い出したので、思わず聞き返す。
「例えばよっ!」
「は、はい…」
「地球代表と試合をして負けたら征服されちゃうの」
「はぁ」
「その時に先発マウンドを任せてもいいと思える人がエースなんじゃないかな」
「確かに、相当な信頼感ですね」
「でしょ、いくら成績がいいからって、そのマウンドをTwitterばっかりやってる人に任せたくはないでしょ?」
「う~ん、確かに」
誰と心中するかと言われれば、雑念無く野球に集中してる人を選びたいと思うのが心情だろう。
コーヒーメーカーがコポコポと音を立て、香ばしい香りが給湯室を包み始める。
「会社でも同じよ」
「会社でも?」
「例えばウチの工場長。あの人やり手だと思うけど、エースって呼びたい?」
「いや、全然」
「でしょ!いざっていう時に頼れる人じゃないとエースとは呼べないのよ。
そういう意味では、この前班長に抜擢された町上さんの方がエースっぽいわね」
「町上っ!?」
突然出たその名前に俺は驚いて聞き返した。
話した事はないが、工場の印刷工の若手にそういう名前の男が居るのは聞いていたし、その男がこの前班長になったというのもチラッと耳にはしていたが、北原さんの口からその名前が出てくると、嫉妬めいた感情が湧いてくる。
「なに、鈴木くん、知り合いなの?」
「いえ、全然っ!」
全力で否定した俺は、勢い余って北原さんに宣言した。
「北原さん!」
「ん?」
「俺、エースになります!!」
突然の俺の宣言に、北原さんは目を丸くして驚いた表情を浮かべたが、すぐにいつもの悪戯っぽい笑顔になって応えてくれた。
「がんばれ、すずき!」
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