第32話
定時後、明代と会社の玄関前で待ち合わせをして、明代の家へと向かった。
前回来たときは気が動転していたこともあるが、何時来ても息をのむ高級マンションである。
明代は美香子をソファに座らせると、コーヒーとロールケーキをお盆に乗せて持ってきた。
ロールケーキを美香子の前に置きながら明代は言った。
「これ、たまたま手に入ったのよ。美味しいと評判になっているから、食べてみて」
「ありがとうございます。どこのケーキですか?」
美香子はロールケーキを見つめた。見るからにふわふわな生地に、円の8割を白いクリームが占めていた。上にかかった粉砂糖がさらにロールケーキの質を高めている。
「えっと、確か・・・gattoってお店よ。知ってる?」
美香子は即座に反応した。数ヶ月前、テレビで見たときから気になっていたお店だ。
新宿に店を構える人気ケーキ屋さんで、多いときでは二時間は並ぶと聞いたことがある。
何度か買いに行ったことがあるが、長蛇の列だったり、売り切れていたりして結局まだ変えたことがなかった。
「ずっと気になっていたお店です。まさかこんなところで食べられるとは思ってませんでした」
興奮気味に言うと、明代は満足そうに微笑んでコーヒーをすすった。
美香子は、ロールケーキにフォークを入れた。力を入れなくてもフォークがすっと下まで入っていく。むしろ力を入れるとケーキがぺしゃんと潰れてしまいそうなほどデリケートだった。
一気に3分の1近くのケーキを口に頬張った。スポンジ生地もクリームもお互い邪魔することは全くなく、両方主張しながら一緒に溶けてなくなってしまった。
幸せなひと時だった。
今日、なんのためにここへきたのか目的を忘れてしまうほどに、このケーキに夢中だった。
だから、ふと視線を感じて顔を上げたとき、優しそうに美香子を見つめる明代と目が合って、急に恥ずかしくなった。
「す、すみません・・」
美香子は慌ててフォークをお皿に置いて座り直した。
「いいのよ、気にしないで。あまりにも幸せそうに食べている姿がかわいくて、つい見とれてしまったわ」
美香子はさらに恥ずかしくなって、もっと縮こまった。
「かわいい」を言われたのは、人生で2回目だ。
「ずっとあなたのケーキを食べているところを見ていたいのだけれど、あまり遅くなってしまうのも悪いからそろそろ本題に入るわね。・・・私が進藤先生のところへ通いだしたのは、この生活に疑問を持ったからよ」
思いがけない理由で、美香子はすぐに反応できなかった。
明代の生活をすべて知っているわけではない。しかし、疑問を持つようなポイントがあるとは美香子には思いつかなかった。
「この生活、とは・・・この立派なマンションに住んでいるということでしょうか?」
「それもあるわね。投資がうまくいくこと、この外見で生まれたこと、そしてあなたがさっき食べていたロールケーキもそうよ」
明代の言いたいことがわかるようでわからない。
美香子は顔をしかめて必死に考えた。
そんな美香子を横目に、明代は「つまりね」と付け加えた。
「私、これまでの人生で失敗とか後悔するようなことがほとんどないのよ」
「え?」
「驚いたでしょう?でもね、本当なの。物心ついたときから恵まれていることばかりだった。私の父は大企業の社長で母は売れてる小説家だったの。父の引退を機に今はスペインに住んでるわ。父が大のサッカーファンなの。母は今でも数年に一冊は本を出しているわ。如月篤子って知ってるかしら?」
「もちろん、知ってます。本はあまり読まないのですが、映画化になった作品はたぶんすべて観てます!」
美香子は食い気味に答えた。ミステリーと恋愛を得意とする作家で、美香子が知っている作品だけでも10作は映画化している。
本を出せば必ずと言っていいほど100万部は売れる超売れっ子作家だ。
「あら、母に代わってお礼を言うわ。ありがとう。・・それで、私はとても裕福にのびのびと育ててもらったわ。やりたいことはしてきたし、お金に困ることはなかった。高校も大学も就職も希望通りだったし人生がうまくいっているのは、両親のおかげだと思っていたの。就職を機に両親と離れて自立するまではね」
明代はコーヒーをすすった。美香子も条件反射のようにコーヒーを口に含んだ。苦くて濃厚な香りが口の中に広がった。
「両親からは一切援助を受けずに生活すると決めていたんだけど、今までの生活の質をさげられなくて生活費の足しになるように投資を始めたの。初めは意外と才能があるんだわって感じていた。・・・でも、おかしいのよ。わたし、どれが上がって、どれが下がるかとかなんとなくわかっちゃうの。・・・そして、そこで気づいたの。この感覚は常に持っていたものだったって。受験でも就職活動でも、友人関係でも。何かを決断するときに、最良な選択肢を選べてしまうの。でね、周りが挫折を味わう中、何不自由ない暮らしをしている自分にずっと恐れていたんだってわかった。いつかこのツケが回ってくるんじゃないかって。・・・だから、わたしは困っている人がいたら助けるし、誰も傷つけないようにしようと生きていた」
明代は一呼吸置いて「でもね」とまた話始めた。
「一度だけその感覚に逆らったことがあった。8年前、身を焦がすほど人を好きになったときよ。あなたには以前少しお話ししたけど、奥さんがいる人だったの。・・・詳しい話は省くわね。わたしと彼の関係は深くなってしまってから、奥さんにバレたの。奥さんは訴えるとわたしを脅してきた。わたしも身を引けばよかったのに彼のことが好きすぎて、冷静に判断できなかった。彼に駆け落ちを勧められて同意してしまうほどにね。・・・一緒に逃げようとした日の夜、惨劇は起きたの。彼が家を出ようとしたことに奥さんが気づいて・・・・・彼は奥さんを刺したの。・・・・・その後彼も自殺した。そんなことも知らなかったわたしは、一晩中彼を待っていたわ。翌朝ニュースで見て一週間は寝込んだわ。会社を辞めようとも思っていた。でもね、またその感覚があったのよ。やめない方がいいって感覚だった。わたしは、彼を失ったことで、二度とその感覚には逆らわないことにしたの。・・彼はわたしに迷惑がかからないようにわたしにつながるものは一切残していなかった。だから、わたしは誰からも恨まれることなくこうして生きてるの。結局夫婦喧嘩のもつれによる殺人で彼の話は終わったわ。愛する人を失って、これが逆らってツケが回ってきた結果なんだって思い知った」
話の途中から明代の声は震えだし、鼻をすする音が混じって、最後には涙の粒が頬を流れた。
まだ傷は癒えていないのだと伝わってきた。
「わたしは、知りたかった。この自分の持っている感覚がなんなのか。他にもこう言う人が存在するのか。ネットであらゆるワードを駆使してヒットした会合にいくつも参加したわ。霊感、思想、宗教。いろんな人が集まって信仰したり不思議な現象について語り合ったりしていたわ。でも、わたしと同じような人はいなかった。でもね、その中の一つ、予知夢の会合で知り合ったのが進藤先生よ。先生は退屈そうに座っていたわたしに話しかけてきた。誰かに話を聞いてもらいたかったわたしは引っかかっていた思いをすべて話した。そこからよ、進藤先生の研究に参加するようになったのは」
明代は「わたしの話はこんなところかしら」とケーキの皿を手に取った。
ケーキを口に入れて「本当に美味しいわね」と言いながら食べていた。
その間、美香子はずっと口を開けずにいた。なんと言葉を発すればいいのか思いあぐねていた。それくらい、明代の話は衝撃的だった。
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