第30話

帰りの車では美香子もすっかり緊張は解け、いつも通り話をすることができた。


「そういえば、最近高山さんと仲がいいですね」


信一は片手でハンドルを操作しながら、横流しで美香子を見た。


「はい。高山さんは仕事ができるだけではなくて、プライベートでもとても気が効く方で、何度も助けられているんです」


「そうなんですね」


信一が拗ねた子供のようにそっけなく言った。


「どうしたんですか?」


「いえ、別に。ただ、僕は助けられなかったのになあ、と思っただけです」


非常階段での出来事を指しているのだろう。美香子は反省したように体を縮めた。

総務部長である信一は井口さんが既婚者であることなんてとっくに把握していて、だからこそ美香子に忠告したのだ。


「あの節はすみません。でも、篠宮さんも他に言い方がありましたよね?」


「既婚者だという事実をうまく伝えられなかったのは反省してます。あなたが傷つく顔を見たくなくて、つい遠回しに伝えてあなたが諦めてくれればいいと思っていました」


「そんなにストレートに言われると怒れません。篠宮さんはすごいですね」


本心で言っていた。信一の飾り気のない態度は、美香子も見習いたいと常に感じていた。


「そんな大層なことではありません。僕はあなたに嘘をつくのが嫌なだけです」


「でしたら・・・・」


美香子は流れに任せて言いそうになった言葉を直前でためらった。

喉を潤わせるように唾を飲み込んだ。

「やはり、前世の記憶があるというのは本当なのですね?」


信一はまっすぐ向いたまま応えた。


「はい。あなたを救いたいということも。僕は、そのためにこの世に生を受けたのです」


後ろめたさのないきっぱりとした口調。

嘘ではないと訴えているように、信一の横顔はいつもより凛々しく感じられた。

なだらかな鼻筋や漫画のような顎のライン。見れば見るほどため息が出るくらい美しい顔のラインだ。


どうしてわたしなんだろう。


美香子はずっと思っていた。信一のように顔もスタイルも中身も完璧な人間が美香子のような地味で冴えない顔でなんの取り柄もないOLにここまで執着させられるなんて、残酷な因縁すぎると。


「篠宮さんは、それでいいのですか?わたしは沙織のことを何も覚えていないですし、ご自分の人生を棒に振ってしまって後悔はないのですか?」


「ありません。あなたに沙織の記憶がなくても、僕には感覚でわかります。その感覚を持てるだけで、僕は幸せです。たとえあなたが他の男性を好きになったとしても、僕はあなたが幸せならそれでいい。あなたを幸せにする男性なら僕は潔く身を引きます」


「どうしてそこまで・・・?」


信一がかすかに笑ったのが横顔でもわかった。


「あなたを心から愛しているからですよ」


ストレートな想いに、咄嗟に反応できなかった。

車のスピードに合わせて周りの景色もどんどん変わっていく。

美香子は通り過ぎる景色を傍目に、頭は真っ白だった。

あまりにもまっすぐで、嘘偽りない汚れのない本心が見えて、

胸が熱くて焼け焦げてしまいそうだった。

今が人生の絶頂期だとしても、わたしはきっと後悔しない。


その時だった。脳に覚えのない記憶が蘇った。



ねえ、アキラ


頭の中に女性の声が聞こえる。視界には背が高くて穏やかな表情をした男性の姿が映っていた。

男はどこかで見たことのあるようなシルエットだった。顔の細部まではよく見えない。


何だい?サオリ


サオリ?ん?


沙織・・・・・・?


美香子の思考が戻った。

信一の声が聞こえてきた。


「美香子さん、大丈夫ですか?急に遠い目をするから何事かと思ってしまいましたよ」


ホッとした気持ちが伝わる信一の言葉を聞いているようで美香子は聞いていなかった。

それよりもいま写し出された情景に全神経を集中させていた。

思い出すことで、記憶に定着させようとしていた。




***


「そうですか、わかりました。それでは、1日だけください。明日、その男性と二人で会います。そこで記憶が蘇ったら、またここへ来ます」


昨日、進藤先生を前に美香子はこう伝えた。


「もちろんだ。僕に拒否権はないさ」


進藤先生は強く頷いた。そして、「追加でお願いがあるんだ」と付け足した。


「もし明日記憶が戻ったら、その情景を鮮明にメモに残していてほしい。それはこれから先もずっとしてもらうべき行いだ」


***




明日、病院に行かなきゃ。


さっきの記憶はまだちゃんと覚えている。

また新しい記憶が戻ってしまった。


過去を知りたいという気持ちは今でも変わらない。

でもその反面、残念なような悲しいような気持ちにもなっていた。

後悔しない、なんて本気の気持ちではなかったんだ。

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