第29話
病院を出てすっかりオレンジに染まった空の下を美香子は一人駅へ向かった。
明代は先生の元に残って話があるという。
美香子はスマホを取り出して、信一のメールに返信をした。
『返信をしていなくてすみません。篠宮さんのことが嫌になったわけではありません。明日もし暇でしたらどこか行きませんか?』
送信完了。
信一からすぐに返信が来た。
『空いてます。いいお店を知っているのでそこでランチをしましょう。明日10時に車で迎えに行きます』
胸が暖かい気持ちになる。こんな気持ちは今まで味わったことがない。
美香子は、信一の返信を何度も読み返した。
病院に行く前よりも断然に軽やかになった足取りで駅のホームへ降りていった。
日曜日。信一は予定通り10時に迎えに来た。
美香子が玄関から出てくると、信一は驚いた顔で固まった。
「やっぱり、変でしょうか?」
美香子は、赤のチェックのワンピースを来て出た。たった一枚の、どこにも来ていく予定がなくて眠っていた服。たった一枚の膝丈のスカート。
流行に疎い美香子は、このワンピースが世間的に問題ないかもわからなかった。昨日の夜、ネットで調べた限りでは、似たような服を着ている女の子がいたから、今日は着る決心をした。
信一は美香子の言葉に大きく首を振った。そして、いつものように優しい口調で言った。
「そんなことありません、とてもかわいいです」
美香子は自分で聞いておいて、どう反応すればいいのかわからなかった。
「かわいい」と男の人に言われたのは、人生で初めてだった。
信一が助手席のドアを開けて待っていてくれた。
座席に腰掛けると、スカートが膝上までずれて、タイツの網目から肌色が覗いた。
見えるわけのないパンツが気になる。女性のファッションって大変なんだな、と28歳にもなって実感した。
隣に信一が座ると、その恥ずかしさは何倍も増した。
こんなブスが調子に乗ってすみません。
誰にでもなく心の中で謝ってしまう。
信一は、黒のジャケットとパンツのセットアップでいつものスーツより少しラフな格好だった。
私服になるとかっこよさが増した気がする。
美香子は、信一の隣に並ぶのが余計に恥ずかしくなってきた。
信一は市街地を抜けて、細い道を進んでいく。周りも賑やかな通りや高いビルよりも静かで閑静な住宅街に変わっていた。
そのうちの一角、緑で囲まれた中にあるクリーム色のロッジのような見た目をした建物の近くのパーキングに信一は車を駐車した。
「さあ、着きましたよ」
信一は素早く外に出ると、乗った時と同じようにドアを開けてくれた。
美香子は「ありがとうございます」と外に出た。
店内もオシャレだった。中は完全にロッジで、高い天井からシャンデリアのような電灯とシーリングファンがぶら下がっていた。ランダムに置いてある木目調のテーブルと椅子はほとんどがすでに埋まっていた。そういえば、駐車場にも車が数台停めてあったことを思い出す。
こんなわかりにくい場所にあるお店をみんなも知っているんだろうな、という感心と、どうやって情報を得るんだろう、と疑問を抱かずにはいられなかった。
店員に案内された席は、窓に近くて外の景色が拝める位置だった。
お店の庭のような場所が広がっていて、緑だけでなく赤やピンクの花も咲いていた。名前は全くわからないが、冬の透き通った空気の中にあると綺麗に見えた。
「ここはカレーの専門店なんです。とても美味しいのでぜひ食べていただきたくて」
信一がメニューを広げながら言った。
専門店というだけあって、何種類ものカレーの名前と写真が並んでいた。
美香子は店員オススメのバターチキンカレーを、信一はビーフカレーを注文した。
運ばれてきたカレーは普段食べる市販のカレーとは違い、匂いから食欲を刺激した。
白地に水色で模様が描かれた楕円形のプレートも銀色の妙に丸が大きなスプーンも、カレーをオシャレに見せることに一役買っていて、これが祐奈たちが言っていた「インスタ映え」ということなのだろう、とどうでもいいことを考えていた。
無意味とも思えるようなことを考えていないと落ち着かなかった。
信一の声が、仕草が、微笑みが、今までの何倍も優しく感じられて無性にドキドキしてしまっていた。
美香子はカレーを一口すくって食べた。
濃厚だけどサラサラとした舌触りのルーが口に含んだ瞬間旨味を放出し、口の中に一気に広まった。
「美味しいです」
美香子がつぶやくと、信一が「良かったです」と反応した。
「美香子さんのお口に合わなかったら、と心配でもありましたので」
「とんでもないです。こんなに美味しいカレー、生まれて初めて食べました」
「生まれて初めて、ですか。光栄です。美香子さんは家ではカレーなんて作られますか?」
信一が含んだような言い方をした。
「いえ、カレーは具材だけ買ってルーは出来上がったものを使います。いつかカレールーも作ってみたいとは思っていますが」
「そうなんですね。実は僕はたまに作るんですよ、スパイスカレーを。今度ぜひ食べにいらしてください。お誘いしますね」
美香子は俯きながら「お願いします」と応えた。
自分がこんなに幸せでいいのか、と申し訳ない気持ちになってくる。
信一とはその後たわいもない話をしながらカレーを食べ終え、帰りに本屋に寄って帰路に着いた。
こんな幸せな時間がずっと続けばいいのになあ、と心から思った。
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