第21話

タクシーは大通りを離れて高級住宅街へと入っていく。

美香子はぼんやりと窓の外の風景を眺めていた。

丸の内のオフィスビルよりも高い高級マンションの前でタクシーは止まった。

明代は支払いを済ませると、外に出て美香子に手を差し伸べた。


「さ、着いたわよ。降りて」


促されるままに美香子はタクシーを降りてマンションのエントランスの中へと入った。

正面玄関がオートロックの他に、エレベーターは部屋のカードキーがないと作動しなかったり、各フロアにも防犯カメラが設置されていたり、ホテル並みにセキュリティに抜け目がなかった。


32階にエレベーターが止まり、慣れたように明代は歩き出す。

美香子は今日会社であったことなどすっかりと頭から消え、この身分違いのマンションに驚くばかりであった。


カードキーで開けた扉を開いたまま、「さ、入って」と明代が中へ招いた。

美香子は未知の世界へ足を踏み入れる緊張感から慎重に中へ入った。靴が玄関に敷き詰められた光沢のあるタイルに触れたとき、聴いたことのない透き通るように美しい音が耳に響いた。


リビングは25平米ある美香子の部屋がすっぽり入っても余るほど広々しており、L字型の大きなソファや50型以上ありそうなテレビが堂々と置いてある。

ダイニングには6人が腰掛けられるガラス素材のダイニングテーブルが置いてあり、キッチンにはカウンターが備え付けられていた。

外に面した場所はすべて全面ガラス張りで、日差しが遠慮なく差し込み部屋全体が明るかった。東京タワーのシルエットがはっきりとカーテンレースに浮かんでいた。


「適当に座ってね」


明代は上着を脱ぎ、ハンガーにかけながら言った。

眼鏡とヘアゴムはとっくに外されていた。


「えっと、高山さん、ここって・・・」


「あら、私の家よ」

「え?こんなにすごいところに住んでいたんですか?」


「そんなにすごくないわよ。投資に興味があって始めたら、おもしろいくらいに稼げちゃって。きっと運がいいのね」


謙遜したように言ったが、幸運だけでこんなに稼げるほど簡単ではないと、投資をやっていない美香子だってわかる。

こんなとんでもない人が同じ会社の同じフロアにいたなんて、と美香子は尊敬の眼差しを向けた。


「飲み物は紅茶でいいかしら?」


キッチンに向かった明代は、食器棚からおとぎ話のお茶会に出てきそうなかわいいティーカップを取り出した。


「あ、私手伝います」


ソファから立ち上がった美香子を明代は「いいから」と制した。


「お客様なんだから、そのまま座っていて。紅茶に好き嫌いはある?カモミールでいいかしら?」


「はい」


声の圧に押されてゆっくりと座り直しながら返事をした。

深く沈み過ぎず固過ぎず、背もたれが高過ぎず低過ぎず、背骨のラインに気を遣った座り心地の良いソファだった。欲しくても泣く泣く諦めてきたソファを思い浮かべながら、このソファはかなり高価な値段に違いないと推測できた。


カチャカチャと音を立てながら明代がティーカップをお盆に載せて運んできた。

湯気の立ったティーカップを、音を立てないように美香子の前に置いた。

続けて、クッキーの入ったお皿を置いた。真ん中に赤やオレンジのジャムが入っていた。


美香子は紅茶を一口、口に含んだ。冷え切っていた体に熱が戻るのを感じた。

次にクッキーを一枚手にとって口に運んだ。サクッと軽やかな音を立てて割れたクッキーは口の中でサラサラと溶けていく感触があって、甘過ぎない上品な味わいだった。


「どう?少しは気分が落ち着いたかしら?」


「はい。本当にありがとうございます」


「いいのよ、気にしないで。困っている人を助けるのは当たり前のことだわ」


明代はさらっと言った。この人は、本当に今までもそうしてきたのだろうと思った。人助けなんて思っていても行動に移せる人なんてそんなにいないはずだ。

美香子だって、今日の朝電車でお年寄りに席を譲れず心苦しい思いをしたばかりだ。


「何も聞かないんですか?」


明代はティーカップから口を離すと、微かに微笑んだ。


「あなたが言いたくなかったら聞かないわ。でも、言いたくなったらいつでも聞くわよ」


美香子は、もう一度紅茶を飲んだ。

そして、「実は・・・」と今日の朝起こったことまでを順に話し始めた。

最初は恐る恐る明代の顔を伺いながら話していたが、真剣に話を聞いてくれていることがわかるとタガが外れたようにどんどん言葉が溢れ出して止まらなくなった。

言葉と一緒に涙も、次から次に頬を伝った。


話を聞き終わった明代は、沈痛な表情を浮かべながら美香子にティッシュとハンカチを差し出しただけで、何も言わなかった。


「すみません。こんな話をしてしまって」


今になって後悔が押し寄せてきた。明代はまだ苦しそうな顔を浮かべていた。

美香子は、どうすることもできずに俯いて座っていた。


どれくらい時間が経ったかわからない。

美香子が空になったティーカップをテーブルに置いたとき、明代が口を開いた。


「あなたは何も悪くない。あの子たちには絶対に災いが起きるわ」


無表情のまま明代は言い放った。

占い師が未来を予測して運命を告げるように、妙に確信を持ってはっきりと口にした。

そして、ようやく安堵した表情を浮かべた。


「よかったわ。あなたのこと少し誤解してしまったこともあったけど、私は間違ってなかったのね。あら、紅茶がなくなっていたの気づかなくてごめんなさい。ポットを持ってくるから待っていてね」


明代が小走りでキッチンへ向かう。パタパタとスリッパが床とぶつかる音がする。

胸の丈を出し切り、泣いてスッキリした美香子は、明代の言葉が引っかかったものの、それ以上気には留めなかった。それよりも、明代という味方の心強さに浸っていた。


夕方まで長居した美香子は、明代に駅まで送ってもらい家に帰った。

自分の部屋が小さくて狭く感じられて、惨めな気分になった。

腫れあがらないように瞼を水に冷やして夜まで過ごした。

ベッドに行く時間になっても祐奈たちから心配の連絡は一通もなかった。

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