第20話
その日からのランチタイムは地獄だった。
祐奈は、毎日のように信一とメールをしていて、そのやりとりを細かく報告してきた。
もう一緒にランチをすることを断りたがったが、また雑用のように扱われるかと思うとなかなか言い出せなかった。
何を食べても味がしなくて、喉に何かが詰まったように苦しかった。
一週間が過ぎた。朝から祐奈のテンションが高かった。
昼休み、開口一番に言った。
「聞いて〜。今週の土曜日篠宮さんと二人でご飯行くことになったの!」
「えー、すごいじゃん」
「おめでとう」
「報告待ってるね」
取り巻きの女子たちが口々に祝福の言葉を浴びせる中、美香子は黙々とパスタをフォークで巻いていた。
心にもないことを平気で言えるほど、余裕はなかった。
早く他の話題に移って欲しい。
そう思っていたのに、祐奈は美香子に尋ねた。
「本田さん、篠宮さんって、女の子のどういう服装がタイプなんですか?」
美香子は「さ、さあ、わからないな」とフォークに巻く手を止めずパスタに目を落としたまま言った。
右手を動かす速度が無意識に上がる。クルクルクルクルと同じパスタがただただ回り続けていた。
「じゃあ、今まで付き合った人ってどういう人ですか」
「・・・知らない」
「何か篠宮さんの恋愛について知っていることはないんですか」
一瞬、沙織が頭をよぎる。
でも、話に聞いているだけで、顔や詳しいことを知っているわけではない。
変な間が生まれてしまった。
美香子は慌てて答えた。
「聞いたことないです。ちょ、直接本人に聞いた方がいいんじゃないですか」
顔を上げると、祐奈の白けた顔が目に飛び込んできた。
失敗した、と思ったのと「わかりました、もういいです」と不機嫌な声が聞こえたのは同時だった。
翌日の朝礼の前、普段は行かない時間にトイレへ行った。
バタバタと数人の足音が聞こえて、トイレの中が騒がしくなった。
聞こえてきた声が祐奈を含めた営業部の女性社員だとすぐにわかった。
女子トイレには洗面台が四つある。ちょうど人数通りだ。個室のドアが開く音がしないということは洗面台を占領して化粧直しでもしているのだろう。ランチの後にもトイレに必ず行くから容易に予想はついた。
出て行くタイミングを完全に失った美香子は、音を立てぬよう服を着て便座カバーを下ろしたところに座ったまま終わるまで待つことに決めた。
化粧品の話や、新しいお店の話、彼氏の話など、ランチのときと内容はそんなに変わらない。
美香子はつまらなそうに耳を傾けていた。
そこに、美香子の全神経が集中する話題が訪れた。
端を発したのは、祐奈だった。
「あ、そうそう、今日からもう本田さんランチに誘うのやめたから」
道端の石ころのようにどうでもいいことを話すように言った。
その他の女子たちも大して興味は示さず、「そうなんだ」くらいの返答だった。
「まあ、確かに思ってたより使えなかったしね」
「でしょー?篠宮さんのこともっと教えてくれるかと思って期待していたのに、全然知らないんだもん。それか、隠しているか。どっちにしても、これ以上一緒にいても有益なことは聞き出せそうにないからさ」
「賢明な判断だと思うよ」
嘲笑うような声で誰かが言って、つられたように全員が冷たく笑った。
お腹がキリキリと痛み出した。
心臓がきゅうっと縮んでいくような感覚があった。
痛い。苦しい。
「あ、そろそろ行かなきゃ」
祐奈たちはバタバタと足音を立てながら嵐のようにトイレを出て行った。
急な静けさが美香子を襲った。
朝礼が始まる。急いで行かなきゃ。手も早く洗いたい。
頭ではわかっている。わかっているのに体が便器に張り付いたように動かない。
かすかに始業を告げるチャイムが鳴ったのが聞こえた。
スマホはカバンに入ったままだった。今頃着信があっているに違いない。
美香子はしばらくその状態でいた。
また、トイレに誰かが入ってくる音がした。
ヒールがコツコツと規則正しく鳴り響いた。
祐奈たちではない、と直感でわかった。
その人が用を足して個室のドアが開く音がした。
意を決して、美香子もドアを開けた。
明代と鏡ごしに目が合った。
美香子が個室から現れて、驚いた顔をしていた。
同じく鏡には死にそうな目に鼻の上が赤みがかったブサイクとしか形容し難い自分の顔もうつっていた。まるで明代の背後霊のように。
明代が美香子の方を向いて訊いた。
「今日、事務所で見かけなかったから、お休みかと思っていたわ。おまけにひどい顔よ。何かあったの?」
美香子は無言のまま首を横に振った。
何か言葉を発せば、涙も一緒に出そうだった。
明代は何かを察したように何度か頷いた。
手に持っていたハンカチを綺麗に畳んでポケットにしまうと、優しさに満ちた微笑みを浮かべた。
「ちょっと、ここで待ってて。私に任せて」
美香子の返事を待たずに明代はトイレを出て行った。
数分後、明代は美香子のカバンと自分のカバンを手に戻ってきた。
「営業部長には本田さんが具合が悪くて早退することを伝えてきたわ。一人では到底歩けそうにないからって、私も付き添いで休むことにした。行きましょう」
美香子は明代に支えられながら会社を出た。
明代はタクシーを捕まえると、いたわるように美香子を乗せ、タクシーに行き先を告げる以上は口を開かず、美香子の隣に座っていた。
美香子は操り人形のようにただ黙って明代に従っていた。
何も聞かずにそばにいてくれることに、感謝しかなかった。
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