第19話
「あ、美香子さん?大丈夫ですか?」
穏やかで優しい声。なぜかこの声を聞くと安心できる。
「はい。篠宮さんこそ、昨日は大丈夫でしたか?」
「僕のことは心配いりません。あの後すぐに僕たちも店を出て、きちんと矢野さんを家まで送り届けました」
「そうですか」
ホッとする自分を悟られないように、美香子は平然を装った声で言った。
「美香子さんの方こそどうでしたか?その、山崎さんとは?」
「わたしもきちんと送ってもらいました。すごくいい人でした」
「それなら、よかったです。僕も、山崎さんはいい人だと感じました」
もっと動揺をすると思っていた。
信一の落ち着いた返答に、美香子は不満だった。
だから、こんなことを言ってしまっていた。
「篠宮さんの許可をいただけたみたいで安心しました。次は邪魔しないでくださいね」
信一がどんな顔をしているのか知りたかった。
静かな沈黙が流れた。
「では、僕はこれで」
信一が電話を切ろうとした。美香子は「ちょっと待って」と反射的に言っていた。
「あなたに聞きたいことがあるんですけど」
「はい、何でしょうか」
きっと、頭がどうかしちゃっているんだ。
だから、ここではっきりとさせておこう。
「この間、あなたはわたしの前世が沙織という女性だと言いました。沙織ってどんな人だったんですか」
信一が息をのむ気配があった。
間をおいて、穏やかで優しい声のまま答えた。
「沙織は、とても魅力的で優しい人でした」
「そう、ですか」
美香子は、自虐的に笑っていた。やっぱりね、という気持ちと自分が信一の言葉を少しは真に受けてしまっていたことに対する愚かさからだった。
「突然、変なことを聞いてすみません。今の質問は忘れてください。それでは」
何か言いたそうな信一を断ち切るように電話を切った。
思い違いだとわかって安心したような少し残念のような複雑な気持ちだった。
その夜、久しぶりに夢を見た。
誰かとドライブをする夢。隣は男性だった。顔をよく見たいのに、視界には前方の道路しか入ってこない。
山を登っているようだった。カーブの多い細い道を車はスピードを落とさずにどんどん走った。
男がこっちを向いて何か言った。聞き取る前に、ハンドルを切り損ねた車がスリップした。そのままガードレールのない崖へ落ちていった。
ジェットコースターが猛スピードで落下したときと同じ浮遊感があった。
そこで、目が覚めた。
心臓が恐怖で大きな音を立てて鳴っていた。
額には汗をかいていた。前髪が皮膚にくっついて気持ち悪い。
時計を見ると、AM3時だった。起きるには早すぎる。
落下したときの浮遊感が体に残っていた。
夢には深層心理が関係していると聞いたことがある。いったい今の夢はどんな心理が反映されているのだろう。
美香子は心を落ち着けて目を閉じた。
寝ようと思えば思うほど寝付けず、寝返りを打つだけの時間が無情にも過ぎていった。
ようやく眠りについて目覚ましで起きるまで、もう夢は見なかった。
月曜日。憂鬱な気持ちで会社へ向かった。
フロアに入ると、信一の姿だけでなく、いつも始業時間ギリギリに出勤する祐奈の姿もあった。
美香子は気配を消して自分のデスクに座った。
嫌な予感はあった。
すぐに、それは的中した。
「本田さん、ちょっといいですか〜?」
パソコンを起動していると、祐奈が近づいてきた。
満面の笑みだった。
祐奈が向かったのは、いつか信一に連れられた非常口だった。
重い扉が鈍い音を立てて閉まったのを確認して、祐奈が口を開いた。
「本田さん、金曜日はありがとうございました〜。とっても楽しかったです。山崎先輩には無事に送ってもらえましたか?」
張り付いた笑顔に白々しい声。
美香子には到底真似できない。
「はい、途中で抜けてしまって失礼しました」
「いえいえ大丈夫ですよ〜。でも先輩があんな女性を連れ出すなんて驚きました〜。篠宮さんもすごくびっくりしてましたけど、山崎先輩に任せておけば大丈夫ですよって伝えたら安心されてましたよ」
「そうですか。確かに、山崎さんはとてもいい人でした」
「ですよね?大丈夫ですよ、山崎先輩は女性の好みとかないので狙っちゃってくださいね。絶対、大丈夫ですよ〜」
胸がモヤモヤと黒い感情で破裂しそうだ。
祐奈は、山崎さんが同性愛者であることを美香子が知らないと思っているようだ。
確かに、今までも同じようなことをしてきているが、山崎さんが本当のことをいったことはなさそうだった。
祐奈は美香子の返事がないのを気にも留めずに、さらに話を続けた。
「でね、本田さんのおかげで篠宮さんの連絡先を無事に聞くことができました。これからは私が直接お誘いするのでもうご迷惑はかけないようにしますね。あ、篠宮さんのこと、狙っちゃって大丈夫ですよね?」
祐奈が笑顔のまま、鋭い視線を向けた。
かわいい声で言っているが、ダメとは言わせない圧力があった。。
「あ、そろそろ戻らなきゃですね。本田さん、行きましょう」
祐奈が扉を力一杯押した。先ほどまでの静寂が嘘のように廊下からのザワザワとした雑音が耳に入ってきた。
軽い足取りで祐奈は先を行く。膝上のスカートが左右にひらひらとなびいている。
あんなスカートが似合う女の子に生まれてきたかった。
こんなに強く、羨望や憧れとは違う気持ちを抱いたのは初めてだった。
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