第8話

信一が美香子の会社に来てから一週間が過ぎた。

あの朝の出来事以来、信一が美香子に話しかけてくることはなかった。


お昼休み、いつものようにお弁当を持って屋上に向かおうと席を立ったとき、

甘い匂いと鼻にかかった胸糞悪い声がした。


「本田さ〜ん、私たち、今からランチ行くんですけど、本田さんも一緒に行きましょうよ」


祐奈が小首をかしげながら、美香子の洋服の袖を引っ張る。


「すみません、私お弁当があるので」


腕にかけたハンドバックを掲げながら美香子は断った。

しかし、祐奈が袖を離す気配はなく、むしろさらに強く握り、左右に揺らしてきた。


「いいじゃないですか〜。たまには行きましょうよ〜」


唇を突き出し、ほっぺを膨らませんがら言ってきた。


モヤモヤとした気持ちになった。

今まで一緒にランチに誘われたことは一度もない。


追い討ちをかけるように取り巻きたちも次々と心にも無いことを言ってくる。


「もう涼しいし、お弁当は冷蔵庫に入れておけば大丈夫ですよ」

「本田さんとランチしたいって思ってたんです」

「たまにはお話ししましょうよ〜」


断りたい。でも、多勢に無勢だった。


美香子は考えを巡らせた。

今日のお弁当は鰆の西京焼きにほうれん草のお浸し、ポテトサラダにミニトマトだ。夜ご飯に回して、夜ご飯の予定だったパスタとスープを冷凍しサラダを明日の朝からサンドウィッチに使えば大丈夫だろう。


「わかりました」


祐奈たちに連れられてやってきたのは、パンケーキのお店だった。

店内は女性客だけで埋まっていた。木を基調にしたテーブルと足の細い椅子、壁には英語で書かれた本や観葉植物、よくわからないローマ字のオブジェがかけられている。

テレビや写真でしか見たことのない世界。

不思議の国のアリスのお茶会に参加したような、子供の頃欲しかったおもちゃが手に入ったような、目に入っているのに記憶に残らないほど心がソワソワ落ち着かなかった。


メニューを見ても、トッピングとか生地の材料とか、壁においてある洋書と同じで読むのが難しいし見たこともないカタカナが羅列されていて、決められなかった。


「すみませ〜ん」


まだ決め終わらないうちに祐奈が店員を呼んだ。

美香子は試験時間の終了間際で残りの問題を慌てて解くように気持ちだけが焦った状態で、目に入ったものに決めた。

全身が熱くなって、暑くもないのに汗が出てきた。グラスに手を伸ばして、水を一気に飲み干した。


パンケーキが次々に運ばれてきた。

黄色がかった茶色のパンケーキにアイスやベリーソースやアーモンドを砕いたような粒がかかっている。


そのおしゃれなパンケーキに混ざって、茶色しか色がないパンケーキがあった。生地が多く見えていてトッピングもチョコソースだけだった。


おいしそう、と言いながら女子たちはスマホに写真を収めていく。

何枚も何枚も同じ角度で撮り続けている。

食べ始めても、一口ちょうだい、とシェアしあったりしている。


美香子は一人黙々とパンケーキを口に食べていた。

フォークに刺したパンケーキは気をつけないと崩れて下に落ちてしまうほど繊細でしっとりとしていた。口に入れると空気のように軽くて噛まなくても溶けてなくなった。


初めてのパンケーキに浸っていると、突然話を振られた。


「ところで、本田さんって篠宮さんともともと知り合いだったんですよね?」


「え?」


いきなり信一の名前が出て驚いた。

そして、信一のことが聞きたかっただけか、と察しがついた。


「知り合いというか、たまたま会ったことがあるというか・・」


言い淀む美香子に祐奈が「またまた〜」と甲高い声をあげた。


「ごまかさなくていいですよ。初日、篠宮さんに本田さんとの関係を聞いたら、彼女とは古くからの親しい間柄で、僕はずっと再会したいと思ってたんだって、嬉しそうに話してましたよ」


なにその話・・・

美香子は祐奈から聞く話に呆然としてしまった。


祐奈たちは構わず話を続ける。


「でも、初日以来全く篠宮さん来なくなりましたよね?」

「何かあったんですか?喧嘩ですか?」


美香子は曖昧に笑った。

パンケーキが口に運ぶ途中でフォークから垂れ落ちた。


脳裏に最後にした信一との会話が蘇る。

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