第5話
美香子は、さっさと給湯室の雑務をこなすと、ただでさえ無い存在感をさらに消して一目散に自分の席へ向かった。
とにかく、絶対にバレないようにしなきゃ。
そう強く心から願ったのも虚しく、事件は昼休み前に起こった。
女子社員がしきりにお茶汲みを行ったり、意味もなくフロアを徘徊したり、とにかく午前中はざわざわしていた。
近くで祐奈率いる営業女子たちがコソコソ話しているのも耳障りだった。
特に「篠宮さん」と名前が耳に入ると、心臓が飛び跳ねて平常心じゃいられなくなるほどドキドキした。
だから、全然仕事に集中できなかった。
お昼ご飯を食べたら、心を入れ替えて無になって仕事をしよう。
屋上に行ったら気分も晴れるに違いない。
そう思って、残り15分を穏便に済ませようとしていた。
「え?え??」
「やばいやばいばい、こっちにくる」
祐奈と別の女子が小声で話している。
営業部長のもとに行って一礼すると、そいつは営業部を見渡しながら言った。
「営業部の皆さん、初めまして。ご挨拶に伺いました」
頭にこびりついて離れなかった声。
「本日付で総務部長として配属されました篠宮信一です。どうぞよろしくお願いします」
拍手が起きた。美香子も小さく顔の前で倣った。
出来るだけ顔を伏せて信一にバレないように必死だった。
祐奈たちのそわそわした感じで、信一が営業部からようやく出て行くのだと感じ取った。
早く、この場から去って。
パソコンのキーボードを打つふりをしながら、美香子の神経は信一の足音に向かっていた。
どんどん足音が遠くなって・・・・・・
ん?
気づいたときには、もう遅かった。
「美香子、なんで土曜日は逃げたんだ?」
声が頭の上から降ってきた。
そっと、顔を上げた。
信一は前かがみになって美香子のすぐ隣に立っていた。
その周りには、祐奈たちの目を剥いた鬼の形相。
思考停止。
乙女ゲームや少女漫画以外で、こんな状況に出くわしたことなんてない。
美香子は考えるより先にフロアの出口に向かった。
「おい、美香子待ってくれ」
信一の声が背後から追ってきた。
続けて、祐奈たちの声。
「篠宮さん、本田さんとどんな関係なんですかー?」
美香子は脇目も振らず、屋上へ逃げ込んだ。
息が上がって汗がこめかみを流れる。
ああ、これは現実なんだ、と実感した。
なんであいつが自分のことを知っているのか、この会社に来たことは偶然なのかわからないことだらけだ。
はあ、と大きくため息をついて、いつも座る椅子に腰掛けた。
屋上を吹く風は、涼しくなってきた。
お腹は全然空いていなかった。
あのフロアに帰るのが嫌だった。
胃がキリキリと痛んできた。
信一の執拗な絡みも女子社員の嫉妬や興味に満ちた視線も、耐えられる自信はなかった。
なんで自分が信一みたいな男に目をつけられたかわからないが、迷惑な話だった。
こんな展開は物語の中だけで十分だ。
美香子はただ、平凡に波風なく毎日を過ごせればそれでよかった。
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