第3話

帰りたい。もう、嫌だ。


美香子はうんざりした気持ちで人混みをかき分けていた。


土曜日の午前11時、青山。

お祭りがあるわけでもないのに多くの人でひしめきあい、戦場と名付けるのがふさわしい光景だった。


ただでさえ10月になってもまだ暑さが残っているのに、ここは真夏にも負けない蒸し暑さがあった。

人とすれ違うだけで汗をかく。


家の近隣以外の場所に赴いたのも、会社に行く以外に電車に乗ったのも久しぶりだった。

青山には、ネットで調べて行ってみたい家具屋がある。職人が一つ一つ丁寧に作製した椅子が売ってあり、座り心地も技術も高評価を得ていた。


前回の椅子もとことんこだわり抜いて購入した。

今回も妥協はしないつもりだ。青山では二つほど候補を挙げており、気に入った商品がなければ、表参道の店も渋谷まで赴くのも厭わない。

今日、運命の出会いをしないことの方が問題だった。


直近で何度もこんな場所に来たくない。

こんな、おしゃれでキラキラした場所に。


1店目では気に入った座椅子を見つけることができなかった。

2店目では、座りごことは申し分なかったが、色が気に入らなかった。


美香子の部屋は、彼女自身がそうであるように、色に乏しくダークブラウンやネイビーなど暗めの色ばかりだった。


良いと思った座椅子は、色がオレンジかグリーンかアイボリーしかなかった。

アイボリーならなんとか、と思ったがすでに売り切れていて再入荷も未定だった。


どう考えてもオレンジやグリーンよりブラックやブラウンの方が売れそうな色であるのになぜ製作していないのか信じられなかった。

デザイナーは相当自信があるらしい。グリーンも残りは在庫限りだった。

オレンジもグリーンも美香子の部屋には絶対に釣り合わない。門松が立ち並ぶ中にサンタクロースがいるほど不自然な光景になる。


表参道にあるチェックしておいた家具屋に向かうことにした。

そこもクッション性やデザインに定評があった。

美香子にとってデザイン性はまずいポタージュにかけるドライパセリくらい不要なものだったが。


右も左もブランド物のショップや雑誌やテレビで紹介されるようなおしゃれな店がある道を歩くのは、気持ちが落ち着かない。

自分が場違いなところに来てしまった気がしてどんどん肩身が狭くなっていく。

いや、実際に、近所のスーパーに行くような首元がよれた白と黒のボーダーの長袖Tシャツにいつ購入したかもわからない色あせたデニムの格好は浮いていた。

すれ違う人の顔も見ることはできず、ずっと下を向いたまま早足になる。


一刻も早くこんな映画やドラマの中のような世界から脱出して自分の帰るべき場所へ落ち着きたい。

そう思いながら、お目当てのお店がある通りに曲がった。

さっきよりも人気がなくなって、気分が少し落ち着いた。

スマホの画面を見ながら、慎重に歩みを進める。


通りの突き当たりまで来た。

左へ曲がればすぐの場所に目的地を示すマークが付いている。


そのとき、美香子の進行方向の角から背の高い男性が出てきた。

155センチの美香子頭はちょうど肩のあたりだった。男性は180センチは身長がある。

芸能人かと思うほどオーラがあり、ちらっと見た顔は端正に整っていた。

美香子が知らないだけで本当に芸能人かもしれない。

ここがそういう場所であることを思い出した。近所のおじいちゃんやおばあちゃんにばかり会うようなところではないのだ。


ちょっと徳をしたな、と男性とすれ違おうとしたとき、だった。

男性が急に立ち止まって美香子の前に立ちはだかった。


え?何事??


美香子は状況をつかめず頭が真っ白になった。唯一つかめたのは、目の前に障害物があり男性の来ているシャツの裾が目に入っていることだけだった。


「さお・・・すみません、お名前を聞いてもいいですか?」


低音で透き通った声。

夜眠る前に聴くクラシック音楽みたいに耳に心地よかった。


我に返った美香子は必死に声を出して、「な、なななぜですか?」と訊いた。

視界に入っていたシャツがピンと上に張られた。

男性が腕を上げて頭を掻いたようだ。

またシャツに横に入ったシワが戻ってきた。


「そうですよね、突然すみません。僕、篠宮信一と言います」


男性の腕が伸びてきて、美香子の顎を優しく掴んだ。

気づいた時には、くいっと上げられていた。


「あなたの運命の人です」


はあ??????????????


目の前にある信一の顔に笑みが浮かぶ。

肌は白く透明感があり、まつげが長い二重の大きな目に鼻筋が綺麗に通った鼻、そして形のいい唇。

歌舞伎の女形のように美しく気高かった。


ありえない。笑えない冗談だ。

美形だからって喪女をからかっていい理由にはならない。


「人違いです!」


美香子は思い切り信一の体を押した。

信一が後ろによろけた隙に、走って逃げた。

後ろを振り返らずに、ただ前だけをみて駅に向かい、ホームにあった電車に飛び乗った。


クーラーの効いた車内にいても、まだ体は火照り、全身が脈打ち、鼓動は心臓が壊れてしまうほど速かった。

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