第2話
終業5分前、同僚のキラキラ女子のボス、矢野祐奈に呼ばれた。
「本田さ~ん、これ、お願いしてもいい?」
そう言って彼女が持ってきたのは書類の束だった。
100枚はありそうだ。札束だったら泣いて喜ぶがそんなはずもなく、嫌な予感しかしない。
「これ、杉山さんに今日までって頼まれてた資料なんだけど、すっかり忘れちゃってて。わたし、今日はどーしても外せない用事があって残業できないんだぁ」
だから、何?
美香子は資料に目を落としたまま黙って聞いていた。
祐奈はそれを肯定的だと捉えたようで、話をどんどん進めいてく。
「でね、代わりに本田さんにやってもらいたいの。大丈夫、ただマニュアルに沿ってデータを記入して整理すればいいだけだから。簡単だよね?じゃあ、よろしくね」
風邪を引いているわけでもないのに鼻にかかった声で、悪びれた様子もなく言ってきた。
両手を顔の前で合わせる仕草をしたとき、リンゴを砂糖を入れて煮詰めたような甘ったるい匂いがした。
今日は金曜日だ。だれだって残業はしたくない。
それは、美香子にも当てはまる。
金曜日の夜から日曜日にかけて、部屋にこもって映画鑑賞をする。
お気に入りの座椅子に座って、映画に合わせて用意しておいたお酒とおつまみを準備して過ごす至福のひと時。
トイレとお風呂以外、その座椅子の上だけで過ごす。
今日は9時から「ローマの休日」を観ると決めている。
それが終われば「ノッティングヒルの恋人」に、「プリティウーマン」、「きみに読む物語」と観たい映画は尽きない。
どれも大好きな作品で、もう何度観たかわからないが、何度観ても色褪せない名作ばかりだ。
この資料の多さから、残業は1時間じゃ終わらないだろう。予定が崩れるのは明白だった。
美香子は知っていた。
祐奈が就業時間中、1時間に1回はトイレに行って化粧を直していることも、上司の目を盗んでは頻繁にスマホを確認していたことも。
そんな暇があるなら、この仕事できたはずだ。
断ろう。
そう思って美香子は、祐奈の顔を見た。目を伏せて下唇を突き出し泣きそうな顔をしていた。しっかりとカールされたまつげが、まばたきをするたびに小刻みに揺れた。
騙されちゃダメ。
自分に言い聞かせた。
気持ちを落ち着けようと小さく息を吸い、息を吐く勢いに任せて言った。
「私も予定があるからできません。ごめんなさい」
言った。言ってやった。
美香子はそっと顔を上げて祐奈を見た。
そして、咄嗟にまた顔を伏せていた。
さっきまでの子犬のような雰囲気はどこにもなく、まるで獲物を威嚇するライオンのように鋭くて虫を見るように軽蔑した目を美香子に向けていた。
少なくとも、人間に向けてする目ではない。
「あなたごときが、私に歯向かうわけ?あなたの用事と私の用事を一緒にするなんておこがましいにもほどがあるんだけど」
甲高く鼻にかかった声はどこかへ行き、シンデレラをいじめる継母のように祐奈の声は定トーンで冷たく憎しみに満ちていた。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい」
思わす口をついて出ていた。
祐奈は、「わかればいいのよ」と言わんばかりに、資料をバン、と音を立てて机に叩きつけ、大げさに振り返って去っていった。
ゆらゆらとスカートを揺らし、ハイヒールをコツコツと鳴らしながら。
無情にもそこで定時を告げるチャイムが鳴った。
結局、作業が終わって家に着いたのは9時半だった。
急いで支度をし、ようやく座椅子に腰を下ろしたのは11時だった。
忘れよう。忘れて、早く映画の世界に入り込もう。
美香子はオードリーヘップバーンになるべく急いでセットし、再生ボタンを押して、座椅子に深くもたれかかり、リクライニングを倒したときだった。
ギシギシギシ・・・・
と座椅子から嫌な音を出した。
何事?と思い、リクライニングを直そうとレバーを引いた。
も、戻らない・・・・・。
レバーが壊れているのかリクライニング機能が壊れたのかわからない。
その後何度試してもリクライニングはビクともせず、美香子は諦めた。
もう5年は使った。物は壊れるまで大事に使う。
そろそろ寿命だったんだろう。
新しい相棒を買わなければならない。でも、ネットで買うのは避けたかった。
多くの時間を過ごす座椅子だからこそ、座り心地やさわり心地を最優先に考えたくて、座椅子だけはお店に買いに出向く必要がある。
美香子はため息をついて肩を落とした。
金曜日の予定だけではなく、土曜日の予定まで崩れてしまった。
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