運命なんて信じない

ちえ

第1話

遠い遠い記憶がある。

離れた場所に体格がいい長身の男性が立っていて、おいで、と手招きする。

いつの出来事か、相手が誰なのかわからない。

でも、顔も見えないその人が優しい表情をしていることだけはわかる。

まるで、夢を見ているようにふわふわした気持ち。



それが本当に夢だと気づいたのは、枕元のアラームがけたたましく鳴ったときだった。



本田美香子は、まぶたを閉じたまま手探りでスマホを探った。

毎日同じ場所に置かれたスマホを右手が見つけるのは簡単だった。


薄目を開けてアラームをストップして、ベットに横たわったまま腕を伸ばしカーテンを開けた。

刺すような光が容赦なく降り注ぎ、部屋が一気に明るくなった。


ここで、ようやく目を開ける。眩しさを感じたのは、高速道路で隣を車が通り過ぎて行くほど一瞬で、美香子はすぐに明るさに慣れた。


夢の内容はもう思い出せなかった。

ただ、以前もみたことがあるような不思議な感覚にはなった。



朝食はいつもサンドウィッチと決めていた。具材は気分に任せていて、今日はハムとタマゴとレタスの王道メニューだ。

冷蔵庫を開けてハムと卵を手に取る。

冷蔵庫の中は一目で何が入っているのかわかるように整理している。


日曜日に1週間の献立を決め、月曜日にスーパーに行き食材を買う。

そして、前日に翌日の晩ご飯と弁当を作り、タッパーに入れて保存するというのを毎週繰り返している。


朝食が終わると昨日の夜に決めておいた服を着て歯を磨き髪をセットして7時半に家を出る。

歩いて7分で駅に着き、7時42分の電車に乗る。

会社の最寄駅までは乗り換えなしで15分で着く。最寄駅から会社までは歩いて5分。

オフィスは20階建てのビルの10階にある。

エレベーターの混雑状態やタイミングによるが、始業時間の10分前には自分のデスクに着いている。



何でもきちっとこなすのが好きだ。

ルーティンから逸れるのがこわい。



周囲はオフィスビルが乱立していて、そこまで高くない10階じゃビルの壁しか見えない。

屋上は開放されている。そこからだと、小さいが東京湾が見える。

お昼ご飯は毎日屋上で摂るのが日課だった。



始業時間5分前になってようやく室内が騒がしくなってくる。

中にはギリギリで出勤してきて、静かな室内でしばらく荒い息を上げている人もいる。


そんなに慌てるなら、もっと時間に余裕を持てばいいのに。


心の中で思う。もちろん、口に出したりなんかはしない。


いや、できない。


「今日のお昼、ここのカフェ行かない?」


近くで盛り上がっている同僚の声が耳に入ってきた。

同じ部署に女性社員は美香子を含めて5人いる。

美香子以外の4人が毎日近くのおしゃれなお店にランチをしているのは知っている。

誘われたことはない。


誘われても行かないけど。


28年間生きてきて、おしゃれなカフェやアクセサリー、色のついた洋服とは無縁の生活を送ってきた。


美香子は冴えない顔をしていた。

黒縁のメガネを外すと顔の余白が多くて肌の色が浮き出たように目立ち、一重まぶたで化粧をしても映えない目元をしている。


体型は中肉中背。身長は平均。胸もCカップと可もなく不可もなく。


コンプレックスだと感じたことはない。

自分の人生に不満があるわけでもない。

それなりに、楽しく暮らしている。


だけど、アクセサリーをつけて、ピンクのシャツを着て、髪をかわいくアレンジして、おしゃれなカフェでランチをする人生も歩んでみたかったとも思う。

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