アルスの過去

「…余計なことをしてくれた」


 あくる朝、アルスは私の宿を訪ねてきた。


「…随分ひどい顔をしている」


「王都へ行く」


 私が返答する暇もないまま、アルスは決然とそういうと簡素な備え付けの椅子に腰かけた。


 アルスはしばらく無言で考え込むようにしていたが、この男にしては珍しくそわそわと落ち着かず、どこか切迫した様子があった。


 やがて、思い詰めたような顔のままアルスは切り出した。


「エヴァンジェリンを…………しばらく預かって欲しい…………」


 私はただ分かった、とだけ告げた。


「そして………俺は今からお前に……誰にも話したことのない……おおよそ語られるべきではないことを語ろうとしている………今からお前に話すことを…どうか誰にも言わないでくれるだろうか…?」


 私がゆっくりとうなづくとアルスは深い深いため息をついた後、何も言わず写真を手渡してきた、以前目にした女の写真だった。


 そしてアルスはかみしめる様にゆっくりと話し出した。





 ……これは俺の母であり、姉であり、情婦。


 聖母でありファムファタル。


 それらのすべてだった女だ。


 姉さんは美しかった。


 俺は物心ついた時から、母親と父親が家に一緒にいるのを滅多に見たことはなかった。


 幼い頃から俺の面倒をずっと見て育ててきたのは姉さんだった。


 母さんが俺を見るときの目を覚えている。とてもとても冷たい目だった。


 その訳を知ったのは後になってからのことだった。


 ある時、母親と父親が今までに見たことのないような激しい喧嘩を始めた。


 余りの激しさに俺も姉さんも朝まで部屋で息を殺して過ごした。


 俺はたった7で姉さんが16の時だった。


 翌朝、母さんは俺に離縁を突きつけてきた。


 突然のことに俺は激しく混乱した。加えて母さんも半狂乱で何を言っているのか半分以上はわからなかったが、途切れ途切れに俺がすべて悪いと言っていることだけ理解できた。


 姉さんは必死で止めた。


 姉さんと母さんの口論が始まり、その時俺は母さんの口から真実を聞かされた。


《その子はあなたと父さんの実の子だものね》


 それで俺は初めて知った。姉さんは、俺の母さんだったんだ。


 俺の父親は娘を孕ませ、その結果生まれたのが俺だった。母親はそのことを前から勘付いていた。そして俺に離縁を突きつけたんだ。父さんは後ろめたさからか一切止めなかった。


 姉さんは母さんを止めようとしたことで俺と共に離縁されることとなった。


 こうして俺と姉さんは世界で二人きりになった。


 世界は俺達をとことん冷遇した。金もなく手に職もない兄弟がどう生きるか。それは地獄の様な日々だったが、それでも家に帰れば二人には家族のぬくもりが通っていた。


 だが、ある夜姉さんの手が俺の下着の下に潜り込んできた。俺は混乱したが、抵抗はしなかった。


 姉さんは俺にとって世界そのものだったしその感覚を、俺は、嫌ではなかった。


 姉さんは俺の名前を何度も呼んだ。


 俺は訳も分からず恥を感じながらもその感覚に身を委ねた。


 それからしばらくして、姉さんは娼婦となり部屋で客を迎えるようになった。


 中には暴力を振るうような男もいた。俺は部屋の外で姉さんの悲鳴が止むまでずっとうずくまっていた。


 それからも俺と姉さんの晩の交わりは続いた。


 俺はいつしか姉さんに考えることのすべての責任を押し付けることを覚えた。そうすることことで俺は無力な自分を守ろうとしていた。 


 俺は姉さんの共犯者にすらなれない、なろうとしない卑怯者だった。


 それでも姉さんは何も言わなかった。俺を責めようとはしなかった。


 姉さんは日増しに眼から光を失っていき、やつれ、汚れていくように感じた。


 俺はそんな姉さんから見て見ぬふりをし続けた。


 俺は無力だと、少なくともそう信じていたかったのだ。


 そして、姉さんはやがてある客から梅毒をうつされ、呆気なく死んだ。


 俺は医者を呼ばなかった。


 医者は金がかかるから呼ぶなと…姉さんには堅く言い含められていたんだ…。


 俺は姉さんが貯めた金と奨学金で何とか学校へ通えることとなった。


 ………

 

 俺は……姉さんを救うことが出来たのだろうか…?俺はそんな風に娼婦の仕事をする姉さんも、姉さんがそんな仕事をする原因を作った両親や世界もそして姉さんを目当てに来る客も、そしてなによりも…そんな客たちと同じことを姉さんにする自分自身が許せなかった。


 だが、姉さんを目当てに来る男たちに、俺が何かを言う権利があっただろうか。


 そんな下種達にすら俺は何かいう権利すら持たないのだ。


 性とは生命とは分かちがたく、そしてだからこそ


 性とは俺にとって呪いだったんだ。





 しばらくの間、私は声すら出なかった。


 アルス、君のせいではない。私は喉から絞り出すようにそう言った。


 それでアルスはしばらく眉間を押さえてうずくまっていたが堰を切ったかの如く、赤子のように声を上げて泣き出した。


 まるで長年待ち焦がれていた言葉を受け取ったかのようだった。


 私はアルスの背に手を置いた。


 その時からアルスはようやく彼自身により許され初め、癒されていくようだった。

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