2019年8月/7冊 さて質問、この小説のタイトルは?
翻訳の読み比べができるのは古典文学に限られてしまうが、古書店で手に入りやすいので、気軽にトライできる。
一番のお勧めは訳書3冊以上と原書をならべ、つき合わせながら読むことだが、この手間と労力を受け入れられるのは、修行中の翻訳家、書籍執筆者、語学研究者、誤訳探しの趣味人、めちゃくちゃ暇人、だと思われるので、読書好きの一般人は訳書2冊をそろえるだけでよい。読み始めてすぐに「これは本当におなじ原書を訳したもの!?」と、ビックリすること請けあいだ。
以下に、サンプルを挙げる。
① これを見たおとなの人があったら、このささやかな情景と、はにかんだ友情の表示のぎこちない内気な愛情と、ふたりの少年のまじめな細い顔とに、おそらくひそかな喜びを感じただろう。ふたりとも愛らしい、前途有望な少年で、まだなかば子どもらしいやさしさをそなえていたが、もうなかば青年時代のはにかみがちな美しい勝ち気をたたえていたのだから。(高橋健二氏訳)
② もし大人が、このささやかな光景をながめたら、恥じらいに満ちて友情を告白する情愛のぎこちなさと、ふたりの細面の、少年らしい顔の真剣さを見て、きっとひそかな喜びを感じたことであろう。顔はふたりとも美しく、非常にたのもしく見えたが、なかが子供らしいやさしさを残していながら、なかばすでに、青年期の内気な美しい反抗の気をたたえていた。(井上正蔵氏訳)
③ もしも、このささやかな場面を見たおとながあったとしたら、かれはおそらく、これにひそかな喜びを感じたであろう――はにかみがちな友情告白の、不器用におずおずした愛慕と、ふたつの真剣な、細長い、少年らしい顔とを見て。顔は両方ともきれいで、たのもしげで、なかばはまだ、子供らしいやさしさを残していると同時に、なかばすでに、青年期の内気な、美しい反抗精神を見せているのである。(実吉捷郎氏訳)
④ もし大人がこのささやかな情景を眺めたとしたら、おもはゆい友情の表示の、たよりない、おどおどした愛情と、二人の、真剣な、細っそりした顔つきを見て、ひそかに喜んだことと思われる。二人とも愛らしく、将来有望な少年で、なかばはなお子供らしい優しさを具えており、なかばはすでにもう青年時代の、内気な、美しい勝気さをかね具えていたのである。(秋山六郎兵衛氏訳)
さて質問。この小説のタイトルは?
固有名詞が一切出てこない段落を選んだのは質問のための策とはいえ、実はそれ以上の意図がある。これは一部女子には1秒でわかってしまう超有名な場面なのだ(が、核心部分はさすがに載せづらかったので、厳密に云うと「一部女子のあいだで語り草になってる描写の直後の場面」)
世界名作シリーズに挙げられるような教養文学とされながら、偏愛(※変態にあらず)知識満載な特殊女子の心をざわつかせ、脳をしびれさせ「これって……アレだよね?」と囁きながら嬉々として回し読みしてしまう本。
または、なんの予備知識もない普通女子の心をうろたえさせ、脳を混乱させ「これって……どういう意味?」と首をかしげさせながらも徐々にある種の覚醒をうながしてしまう本。
みなさんは①~④の、どれがお気に召しただろう。
夏夜のたまゆらに/鳩かな子 2015年3月
花の棲処に/鳩かな子 2015年3月
よしはら心中/鳩かな子 2015年3月
こころ/夏目漱石 2013年9月
坊ちゃん/夏目漱石 2019年8月
となりの姉妹/長野まゆみ
箪笥の中/長野まゆみ
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~8月の「ちょっと一言云わせて本」~
『坊ちゃん』
本好きを豪語しておきながら、実は日本の文豪小説を自らの意思で手に入れるのはこれが初めてという。学生時代に国語の教科書で読んだ(読まされた)きり大人になってからは素通りして(いっそ避けて通って)きた日本文学の数々……私にとってのデビュー作は、間違いなくコレである。
何十年も海外文学ひとすじだった私は翻訳文体に慣れきっていたため、旧かなづかいや難語の連続に最初こそ面喰ってしまったが、その戸惑いを蹴散らすほどの面白さが、本書にはつまっていた。
本書を教師が生徒に、親が子供に、年配者が若輩者に薦めたがる気持ちも、よくわかる。わかるのだけれど、やはり中学生・高校生の時分では、得られる感動には限界が生じてしまうだろう。共感には経験が必要だからだ。
古典、ひいては文学の旨味を堪能するのに年輪は必要不可欠、と思えば歳をとる愉しみもあるというものだ。
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