第18話 いたずらっ子

「どうした、食わないのか?」


「え、あ、はい……」


 固まったベアトリーチェの様子から、ようやくダンテも彼女が意識していることに気づく。


 だが、ダンテは胸の奥から湧き上がって来たいたずら心に従い、何も気付かないふりをしてじっと待つ。


「た、食べますっ」


 ベアトリーチェは緊張しているのか、言わなくてもいいことを宣言してからバゲットサンドにかぶりつく。


 もちろん食べたのはダンテが食べたのとは反対側で、間接キスをしないように注意していた。


 ベアトリーチェは少々苦労しながら噛み千切った後で、モクモクと咀嚼し始める。


 緊張していることを隠そうとしているのか、つんと澄ました横顔をダンテに見せているのだが、頬が紅潮しているため隠しきれていない。


「…………」


「…………」


 ダンテはそんなベアトリーチェの横顔を眺め――にんまりと意地の悪そうな笑みを浮かべる。


「次は俺だな」


 ダンテはベアトリーチェの手からバゲットサンドを奪うと、わざわざベアトリーチェが口をつけた個所をかじり取った。


「ん~~~っ」


 ギリギリ自制心が勝ったのか、ベアトリーチェは口に物を入れたまましゃべるなんてはしたないことは我慢できたのだが、代わりに空になった手のひらをペチペチとダンテの肩口に叩きつける。


「なんだ? 食っていいって言ったよな? ん?」


 ダンテは、ベアトリーチェの反撃などどこ吹く風とばかりに、平然とした様子でそう言ってのける。


 ベアトリーチェはしばらくダンテを恨めし気に睨んでいたのだが、急いで口を動かしてバゲットサンドを飲み下した。


「ダンテさんっ」


「なんだ?」


「い、い、いまっ! か、か、か、かんせ……」


 ベアトリーチェはその単語を口にすることすら恥ずかしいのか、何度も言いよどむ。


 そこらに居る生娘ですらここまで過剰な反応をすることはないため、どうやら彼女は純情の前にいくつも超がくっついている、かなり初心な少女であった様だ。


 ダンテはひとしきりそんな少女の慌てふためく様子を眺め、嗜虐心を満足させたところで、ふと気づく。


 自分のやっていることが、興味のある女の子にちょっかいをかけるガキと同程度の行動であったことに。


 ただ、ダンテ自身それを認められるほど素直な性根をしていなかったので、


「ああ、そういうことか。気にしてなくて悪かったな」


 なんて今気づいたていを取る。


「ほ、本当ですか?」


「本当だ」


 ぷくっと頬を膨らませたベアトリーチェは、疑わしそうにダンテの目をにらみつける。


 琥珀色の瞳と、琥珀とサファイアの瞳。


 二つの視線が絡み合ったまま時間は過ぎていき、そろそろダンテの表情筋に限界が訪れようとしたところで、ベアトリーチェは何かを確信したかのように大きくうなずく。


「嘘ですね」


「なんでそう、思う?」


 ダンテは言葉の端を震わせてしまったが、噴き出してしまうことだけはなんとか耐えきった。


「ダンテさんの目が嘘ついてます。私そういうの良くわかるんです」


 目ではなく口元を見ていればもっとよく分かったかもしれないが、いずれにせよベアトリーチェは目を見るだけで、詐欺師の嘘でも見破ることができる様だった。


 ――それが、ダンテの詐欺師としてのプライドを刺激する。


「そうか。それで、俺がそんな嘘をついてなんの得をするんだ?」


「はい?」


 普通、嘘を見破られたら観念するか逆上するか悪あがきに嘘を重ねるのだが、そんな先のない反応をしてしまったら詐欺師としては三流以下である。


 ダンテは小さく笑みを浮かべながら更に言葉を重ねていく。


「嘘をつく時、人間は必ずなにか利を得ようとする。結婚してほしい、一夜の快楽が欲しい、金が欲しい、評価が欲しい。とにかくなにかが欲しいときに人は嘘をつく」


「え? え?」


 ベアトリーチェが戸惑っても止めはしない。


 一番簡単に相手を騙す方法は、とにかく冷静になる暇を与えないことだからだ。


「お前に嘘をついて困らせて、俺が得た利益はなんだ?」


「そ、それは……」


 ダンテはベアトリーチェに体を寄せ、彼女の手を取ってバゲットサンドを握らせる。


「ああ、お前に気があるのならいいのかもな」


「ふえぇぇっ!?」


「そうだろ? だってお前を味わえたんだから……」


 ベアトリーチェの全身が一瞬にしてゆでだこの様に真っ赤に染まる。


 更には目をぐるぐると回し、口からはあわあわと意味のない言葉を垂れ流す。


「なあ?」


 ベアトリーチェの両手を左手でかるく押さえ、空いている右手を彼女の頬に添える。


 体の半分以上を押さえられてしまっては、ダンテを突き飛ばして逃げることなど不可能だった。


「だだだ、だんてしゃんっ!?」


「お前の吐息は、どれくらい甘い?」


「ひゃいっ!? ひゃへぇ!? とととちゅぜんなななにゃにをぉ!?」


 もはやベアトリーチェは混乱の極みといった状態で、正常な思考など不可能であった。


 そんなベアトリーチェにかまうことなく、ダンテはゆっくりと顔を寄せていき……。


「ぷっ……くくくくっ」


 いい加減こらえきれなくなって吹き出してしまう。


「くはっ……お前、なんて顔だよ。つーか、噛みすぎだろ。ははははっ」


 一度決壊してしまえばもう後は流れ出るだけ。しかも本人に我慢する気がないこともあり、笑い声はどんどん大きくなっていく。


 最終的にダンテは腹を抱えて大笑いを始めてしまった。


「むぅ~~……」


 そこまでされれば、純情に過ぎるベアトリーチェでもからかわれていたことに気づく。


 不機嫌そうに唇を尖らせ、床で笑い転げているダンテを睨みつける。


「ダンテさんのいじわるっ。もうっ! もうっっ!!」


 そんな風に過剰反応すればするほどダンテの笑い声は大きくなっていった。






「……あー、笑いすぎて腹が痛い」


「それって酷くないですか?」


「すまんすまん」


 ダンテは謝りつつ、バゲットサンドの切れ端を口に放り込む。


 もちろん、謝罪したうえで自分のかじった箇所を千切り取った欠片だ。


「……しかし美味いな」


「そうですね」


 パンは小麦とライ麦を配合した香ばしい味わいのする逸品で、学校付近では決して手に入らない代物だ。


 ガイザル帝国の首都であるガディスグラード、その中心近くに位置するこの区画は、腐っても貴族たちが生活する場所である。


 パンであれば小麦を使った白パン、ベーコンであれば胡椒をふんだんに使ったぜいたく品と、高価な代物しか売っていなかった。


「どこで買ってきたんだ?」


 ダンテはここ最近ずっと勉強をしていたため、部屋にこもりきりだった。


 食事も保存性の高い黒パンにチーズか干し肉と、味は二の次で安くて腹が満たせればよい程度のものばかりだったのだ。


 そこそこの値段でここまで美味しければ、アルに命じて買ってこさせようと考えていた。


「もっときちんと心を込めて謝ってくれたら教えてあげますっ」


 ベアトリーチェはまだ怒っているのか、ツンとそっぽを向いている。


 いつものダンテからすると、あんな子どもじみたイタズラをするのは珍しい。


 それだけベアトリーチェに気を許しているのだが、そんなことなど彼女が知る由もなかった。


「それはさっきの続きをすればいいのか?」


「違いますっ」


 過剰な反応をされ、またもダンテは忍び笑いを漏らす。


 それがベアトリーチェの癇に障ったのか、彼女の頬がぷくっと膨れる。


「分かった分かった、降参だ。すまなかった、反省してる。これでいいか?」


 敗北を受け入れたダンテは、両手をあげて頭の上でひらひらとふる。


 ベアトリーチェはそんなダンテの瞳を怪しむ様にしばらくの間じっと見つめ、仕方ないなぁと言った感じでため息をついた。


「ちょっとだけ反省してるみたいですね、もう」


「ちょっとじゃないさ。本気で反省してるから変な事はしてないだろ」


「はーいはい、そうですねー」


 あからさまに信じていませんといった感じの返答であり、ベアトリーチェもいささか遠慮がなくなってきている。


 二人の心の距離は、確実に近くなってきていた。


「……少し入り組んだところにあるので、今度買いに行く時に案内してあげましょうか?」


「ふむ……」


 ダンテはアンジェリカにアプローチをかけているので、ベアトリーチェと二人でいるところを誰かに見られてしまっては都合が悪い。


「明日ならどうだ?」


 明日はちょうど日曜日であり、ダンテとアンジェリカの関係もまだ薄い。


 それならば例え知られても影響は小さいと考えたからだった。


 だが、ベアトリーチェは渋い顔をして首を横に振る。


「都合が悪いのか?」


「はい」


 だって、と続けたベアトリーチェの顔は、心底いやだとばかりに歪んでいた。


「舞踏会がありますから」

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