2.ナマエ

 ある日、チャイムが鳴った。母と一緒の男たちはチャイムを鳴らさなかったので、「誰かしら」と独り言を言っていた。母は私をクローゼットの中に、私の首輪を引っ張って入れた。母が対応しているのはジドウソウダンジョの人たちだ。これもテレビで見たことがある。確か、親をなくした子供たちが預けられる場所のことだ。ペットには関係ない場所だった。


「ですから、ここには私しかいません。私は未婚ですし、子供もいません。子供の声がしないのは当然じゃないですか」


母は正論を言った。しばらく、口論のようなやり取りが続く。結局母は、ジソウの人を追い払った。ただ、そのジソウの人たちは、母を苛立たせたらしかった。母は私の口にガムテープを貼り付けた。声が出せず、息苦しい。そして何より、これから起こることが恐ろしかった。何も知らない私でも、自分の身に降りかかる危機だけは察知できるのだと安堵もした。母は私のリードを引っ張り回し、私の頭を蹴ったり殴ったりした。


「お前なんかいなければ良かった」


何故か私の心は引き裂かれたように痛んだ。


「お前さえいなければ。お前なんかより、ぼろ雑巾の方がまだましよ」


リードに振り回される私を見ながら、母は言う。私は壁や棚、ベッドの端にぶつかりそうになるのを必死に耐えた。ガムテープで声が出ない。それでもガムテープや首輪を取ろうとはしなかった。もしそんなことをすれば、殺されかねない。(殺される)という言葉は本能的に恐怖心を覚えるらしい。


「お前は黙ってやれって言われたことをやってりゃいいんだよ。そのためにお前は生きてるんだからな。それを嫌がったりしてんじゃないよ。もしそんなことして客に不快な思いさせてみろ。ただじゃおかないからな」


元々、菓子パン一つと牛乳一パックしかい一日で与えてもらえていなかった。やせ細り、軽い体は軽々と宙を舞った。そして背中から落ちてせき込むが、口を塞がれていたのでうまく咳が出来ない。床に転がる形となった私を母は容赦なく踏みつける。首輪を引っ張って立たせ、頭を殴る。


「お前の体は男の好きなようにさせる。そして男は私にその代金を支払う。それだけだ。お前の価値なんて、それだけなんだよ。それ以外にお前の価値なんてないんだよ」


カチガナイという言葉は、「殺す」と同様に恐ろしく聞こえた。カチの意味を私は知らない。言葉も生活の仕方も、テレビに教えて貰った。だから、私は家族を知っている。だが、私にとってそれは、架空のものだった。首輪が擦れて痛い。それが目からあふれ出る塩水のせいだということにしばらくして気付いた。この目から出て来るものは、ナミダだったかしら。


「うざい! 何泣いてんだよ、この馬鹿」


平手打ちがさく裂して再び床に転がる。「汚いわね」と、母は、顔をしかめる。


「あんたみたいな疫病神、いたってしょうがないでしょ? あんたに関わった奴、皆不幸になる。私が一番の被害者だっての」


(ヤクビョウガミ? 私と関わると不幸?)


私の頭から、この言葉が消えることはなかった。


(私のせいで、お母さんは不幸なの?)


「あんたは人形みたいに黙って寝てればいいの。どうせこの部屋から一生出られないんだから」


私はまだ、殴られ、蹴られていた。永遠にこれが続いていくかのようだった。母は気がすんだのか、家を後にした。夜になると母は決まって男を探し、朝になるまで帰ってこない。母は男を連れ込むこともあった。母は男を私に会わせ、写真を撮ってプリントアウトし、男に渡して収入を得ていた。私は着せ替え人形のように様々な服を着た。時には全裸だったり、ゴスロリというものだったり、スクール水着というものだったりした。ボディータッチがあると、さらに金額が上乗せされる仕組みになっていた。さらに、キスが一番高額で、私はほとんどの男とキスをした。キスにも「舌入れ」と「舌なし」があり、私は口の中が気持ち悪くなる「舌入れ」が大嫌いだった。だが、母にとっては高収入となるため、これが一番の楽しみだった。母が連れてくる「客」と呼ばれる男たちはたいてい言う。


「君、いくつ?」


私は四本の指を立ててみせる。


「嘘?」


と客は母に確認を取る。母は笑いながら私のプロフィール帳を見せる。それは「私」という商品の「お品書き」だった。


「小学校二年生くらいかと思ったよ。手足長いし、背も高くて」


客は感心したように言う。


「発育が良くってね。スリーサイズも本当よ」

「プロでも行けるんじゃないか?」

「諸経費かかるでしょ。そういうの嫌だし、これは馬鹿だから。私の言うこと何でもきくから」

「本番は?」

「まだ考えてないけど、いずれはね」


母は男と一緒に笑った。「本番」が何を指すかは分からなかったが、きっと恐ろしいことなのだろう。母と男が笑ったとき、この着せ替えごっこが始まったからだ。

 そのうち、母が頻繁に連れ込む男の人が出来た。初めの内はただの客かと思ったが、母が岸部きしべと呼ぶその人は、私に何の要求もしてこなかった。母はその岸部と私を会わせたくなかったのか、無理やり私を部屋に閉じ込め、外側から鍵をかけるまでになった。岸部といる母は楽しげで、幸せそうだった。母はまだ二十代ということを考えれば、恋愛を普通の女子のように楽しみたかったのかもしれない。岸部が来るようになってから客は減ったが、母の私に対する虐待はすさまじいものだった。岸部への思いがネグレクトを助長し、三日間を五百ミリリットルのペットボトルだけですごしたり、カビだらけのパンが主食だったりした。さらに、岸部とけんかをしたらしき日には、またガムテープで口を塞がれ、振り回され、殴られ、蹴られた。


「お前のせいよ、この疫病神。早くいなくなればいいのに。どうしてお前なんかが生まれてきたの?」


それは私の方がずっと聞きたかった。母はずっと岸部といるようになった。そして私は、最初からいない存在にされてしまった。私は空腹を満たすために布団をかじり、ベッドの木の皮をかじった。水は雨水を飲んだ。自分の排泄物でさえ、貴重な食糧減のように思えたこともある。体力も萎えると、気力も萎えた。


(私、死ぬんだ)


私は四歳で死ぬ覚悟を決めた。


(死んだら天国と地獄、どっちにいくんだろう? 私は疫病神だから、きっと地獄かな)


いつからか、「死」が「希望」へと変わった。しかしその希望ははかなく消えた。誰かが私の部屋に入って来たのだ。声しか聴いていなかったが、おそらくこの人が母の恋人の岸部という人だ。


「み、ず、を」


ぼろぼろになったベッドの上で、私は手を伸ばしていた。岸部は駆け足でコップに水をもってきて、私に少しずつ飲ませてくれた。顔に付いた汚物も、濡らしたタオルで綺麗にふき取ってくれた。


「お母さんは?」

「買い物に行ったよ。夕食を作ってくれるんだって。お母さん、ってことは君は彼女の子ども?」


岸部の問いに、私は上の空だった。


「ごはん、食べてみたいな。ごはん、白いの……一度だけ」

「あるよ。持ってくるよ。それにお風呂も沸かそう」


そう言って岸部はご飯をおにぎりにして持ってきてくれた。私はそれにかぶりついた。


(甘い。おいしい。こんなものが世の中にあっただなんて)


手に付いた一粒まで食べた。しかし、喉の奥にこみ上げるものを感じ、トイレに向かった。せっかく食べたごはんを、すべて便器に吐き出してしまった。初めてのまともな食事に体が耐え切れず、全て吐いてしまったのだ。


「ああ、そうか。おかゆにすれば良かったな。ごめんな」


岸部はそう言って私を風呂に入れ、垢を丁寧に落とし、髪を洗ってくれた。服はお着替えごっこの中から新しいものを出してくれた。


「もっと普通の服があれば良かったんだけど。今度お母さんと話してみるよ」

「ダメ! お願い。私のことは知らないことにしておいて。じゃないと、私、殺されちゃう!」

「前から気になっていたんだ。君のお母さんが物置だって言っていた部屋に何があるのか。開けるな、って言われてたけど、開けて正解だったよ。君、名前は?」


「たぶん、確か……チサ」


岸部に問われ、答えていた。

遠い記憶の中で、忘れられなかった私の呼び名。

私はチサです。どうしたら、お母さんに、愛してもらえますか?


「チサはどうしたい?」

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