37 私的幸福論とエゴイズム

 今、当章を執筆する私には全ての幸福…今ここにいる私にとっての全ての幸福が満ちている。

 馴染みの煙草。お気に入りのペットボトルコーヒー。滋味に富んだ書物。人工の音など何も聞こえない山奥、視線の先に聳える偉大なる富士。エンジンを止め、ひっそりと私の居場所になった愛車…。

 何一つ過不足ない。私はこれら一切のうちに、私の今ここで得られる幸福のその全てを、五感の端々にまで感じている。

 他に何を求めるというのだろう?

 肉欲か?食欲か?名誉か?金か?権力か?…人か?

 否。彼らは決して幸福だけを孕むのではない。そのうちに、野獣のような悪夢を覆い隠している。純粋な、大いなる幸福は、ただ近くにひっそりと佇んでいる。

 私はそれで何一つ欠け落ちることなく満たされるというのに、私の生に、これ以上何を望むというのだろう?……


 私は偉人ではない。信心者でもなく、修行僧でもない。哲学者でもなければ、卓越した智者でもなく、世に飛び抜けた芸術家でもない。ただの俗人である。

 私は時に強欲であり、罪人であり、経済的に富むわけでも貧しいわけでもない一般庶民である。浅学で、感受性も世人と何ら変わるところない。博愛主義など持たず、善意そのもので行動することなど全くない。ましてや誰それの罪、強欲を咎め、『善き道』へと導こうなどと思えるほど傲慢でもなく、自信家でもない。

 そんな私が生草坊主の説法じみた当章を執筆した意図の根幹について、最後に付け加えることとする。…だが、『意図』そのものを明文化することは避けようと思う。それをあえて書き記すことは、私にとって越権行為であろう。…

 

 ただただ己の純粋な幸福を追い求め、失敗と絶望、成功と希望を巡りながら、この苦痛に満ち満ちた俗世を生き抜かんとする美しく、輝かしい魂たちが、その生涯のうちに、『当人にとっては』妥協の産物である仮初の幸福に甘んじ、または不満足のまま死に絶える悲劇を、私がただ見たくないがためだけに私は当章を執筆した。

 故に、その意図の根幹はただ一つである。

 それは、我がエゴイズムの発露の一形態に他ならない。

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