34 天使と悪魔
暗闇の帳、私の前には二人の偉大なるものが居た。
一人は老賢人だった。薄くなった白髪と、それとはうって変わって美しく伸びやかな白銀の髭を持つ、厳粛とした老人だった。静謐なその雰囲気からは、智慧の持つ厳かな沈黙があふれ出していた。
一人は女性だった。否、女性の姿をした全てだった。それは私の思うところの美の、全てを兼ね備えていた。甘く、脳髄を揺さぶる香気を漂わせ、妖艶に足を組みながら、まるでこの世の全てを支配下に置いているといわんばかりに荘厳な王座に腰掛けていた。
「妾を見知るのを初めてとは言わせぬぞ。人の子よ。妾はおぬしらの支配者じゃ。妾はおぬしらの、おぬしら自身すら知らぬ全てを持っておる。そして全てをおぬしらに与えよう。望むならば、それは容易に叶うことじゃ。ああ、愛い人の子よ」
女性が声を発せば、私の聴覚が快楽に満たされた。緩やかに引き上げられた口角は、私の独占欲を刺激してやまなかった。のみならずその気だるげな肢体は…私の全ての欲を支配し、誘惑することをやめなかった。
「ここは汝の夢よ。夢にこの老人の出番など必要なかろう?汝は現世にて散々老人の世話になっておるはずじゃ。それが汝の望むところか、それには関係もなくのう。ならば夢ならどうじゃ?何を躊躇う?汝の夢は、汝自身のものよ。他にそれを誰が知ろうか。知るは汝唯一人じゃ。何を恥じることがあろう。何を厭うことがあろう。ここは汝の内側じゃ。申してみよ。妾は人の子が愛いのじゃ。何ものでも与えようぞ」
私は知らぬ間に女性に近づいていた。香気が強くなった。もはや、私の視界に老賢人は映っていなかった。ただ目の前の、途方もない魅力を備えた女性の、艶やかな細い指が私の頬を撫でていることだけを感じていた。
「申すがよい。全て、与えようぞ」
私の口は、何一つ戸惑うことなく答えを述べた。
「貴女の身も心も、思想も魂も、哲学も存在も、その全てを頂きたい」
女性はそれを聞くと、満足そうに笑った。漏れる吐息さえ、蕩けるような甘さに満ちていた。
「妾を欲しいと申すか。随分逆上せた人の子じゃ。良いだろう。近う寄れ。好きにするがいい。妾も好きにしよう。妾は、全てを与えると申したからのう」
私は、その身を女性の誘惑してやまない体の上に………
私は目を覚ました。スマートフォンが喧しい洋楽で朝を知らせていた。私は先ほどまでの夢を明瞭に覚えていた。『覚えている部分は、明瞭に覚えていた』。
そしてそれ故に、悟った。
「また老賢人の勝ちか」
世にも美しい悪魔は、夢の私に何も与えず、記憶から消えた。私の理性は、夢の中ですら、沈黙のうちに勝利を収めた。
しかし…悪魔の香気だけはいつまでも、寝起きで花粉に侵された大して効かぬ鼻腔の上にも、燻り続けていた…。
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