32 香水

 私は香水を好んでいる。いや、或時を境に好むようになったというのが正しい。その或時とは、私にとっては不本意でありながらも唐突に、されど私のリビドーの望むべくものが『強襲』してきた時である。

 以前、私は女友達に肉欲を覚えたと書いた。それは私の自己弁護を多分に含んだ物言いをすれば、一種の猛毒を持った激烈で身勝手な誘惑に他ならなかった。私はその内容をここで具体的に書こうとはしない。それは、既に私がある短編の中に、落とし込んでいる。ただここでは、男性として求められるわけもないと思っていた憧れの異性に、突如としてそれを、しかもいわば強引な形で求められたと書いておけば事足りよう。

 この事件のあと、私は香水に執着を覚えるようになった。それには確かに、その事件の時に女友達が身に着けていた香水が忘れがたかったこともある。私は、それの上書きを求めていたのかもしれない。他の理由は、未だに判然とはしていない。好きな香りを探して、購入した香水は、確かに私の好みに合うものだったし、周囲からの評判も悪くなかった。

 しかし何より、私にとって重要だったのは、その香水の名がヴェルサーチの『エロス』っだったというところにある。私は購入したときに初めてその名を知った。選んでいる際は、名前など気にしてもいなかった。少なくとも、意識上では、と付け加えねばならないが。さらに、それ以前は香水に興味など全くなかった私が、その名を事前に知らなかったことは改めて書くべきことですらない。

 『エロス』という言葉は、否応もなく私に敬愛するフロイトを思い起こさせた。そしてそこに私は芥川の歯車を思った。ユングの共時性さえもみた。さらにいえば、布置という言葉さえ、脳裏を過った。

 女友達は、紛れもなく私の『タナトス』だった。この『タナトス』は、私に現実の忘却と、パートナーたる彼女という私にとって最も健全な生の象徴を失う術を叩き込んだ。そして何よりそれに耽溺することは、私にとって現実の放棄、すなわち死を意味することに他ならなかった。…

 私が『エロス』を好んで買い、身に着けたことにいよいよ私は皮肉な暗喩を見出さずにはいられなかった。この世に、人の選択に偶然などありはしない。そう考える私は、『タナトス』への無意識的抵抗として、それを選んだとしか思えなかった。

 また余談として興味深いことに、その時買った数種類の香水の中で、彼女が好んだ香りは紛れもなくこの『エロス』ただ一つだった。

 畢竟、やはり彼女は私にとって『エロス』であり、女友達は『タナトス』であるという私の認識は、強められざるを得なかった。

 それは今でも、平行線の途上で、巨大な葛藤を私に齎しながら、双方大切で重要な人間として、私の人生の上に在り続けている。

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