23 血腥さ

 人間である限り、その営みはどこまでも血腥さと縁切れすることはない。我々は、人間らしい血腥さから逃れることはできない。香水、デオドラント、ヘアトニック…ボディクリーム…香りそのものを繕うものは世界に溢れている。それらは、たしかに我々の血腥さを一時とはいえ忘れさせてくれる。

 だが、我々の、…その生命の営みの根源的な『血腥さ』は、如何様にも逃れようのない悪臭として、背後霊のように常に我々に付き纏っている。

 さて、ここでその『血腥さ』について具体例の列挙を行うのは、私の文学的美学に反する。それは美しい文章には成り得ぬ。ただ、私はこの言葉を、嗅覚や視覚のみならず、より広範囲で抽象的な意味として用いているとだけ、注釈を加えておこう。そもそも何より、私自身がその『血腥さ』の根源について今は確言できずにいる。故に、ここはヴィトゲンシュタインの「語りえないことについては人は沈黙せねばならない」という至言に従うことが賢明であろう。

 話を本筋に戻そう。

 私はこの『血腥さ』を病的に嫌悪している。憎悪している。時に自らのそれにさえ、辟易とする。他者についてはもはや、いわずもがなである。しかし、私はそれを欲求し、さらに言えば溺愛さえしている。無論、その対象は自他共に選ぶところを知らない。

 同じ対象に、私の中では完全に対極に位置する嫌悪と欲求という二つの嵐が、同時に吹き荒れている。私の心の無限の、寂寞としたたった独りのための荒野は、その嵐に晒され続け、いつまでたっても荒び果てたままである。

 考えてもみれば、私の『血腥さ』に対するこの相反する感性は、まさに私にとっての、生と死そのものへの完成に限りなく近接している。

 現実に生きようとあれやこれやともがきながら、私のタナトスは、その強靭で残忍、完璧で全能、理性であり知性ですらある、あまりにも尊い頑強なタナトスは、常に私の生を憎悪し続けている。



*当章に引用したヴィトゲンシュタインの言について、私はそれを『表象的その言葉そのままの意味』で用いている。それは私の、ヴィトゲンシュタインを解する頭脳を持たぬためである。

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