(え? 落ち……る!?)

「うわあああっ!!」

 叫んだのは、ドリスではなかった。

 地面に背中を叩きつけられると覚悟して目を閉じたが、ドリスの身体は何やらごつごつと固く、それでいて温かなものに受けとめられた……ように思えた。

 おそるおそる目を開けるドリスの視界に飛び込んできたのは、赤みがかった優しい金色。

 いったい何が起きたのかわからないと言いたげに覗き込んでくる双眸は、深い青色。

「お前……どこから来た?」

「殿下?」

 窓から蜂蜜のようにとろりと流れ込むのは、夕刻を示す飴色の西日。かすかに鼻先をくすぐるのは、古びた紙――おそらく本の匂い。

 どうやら、長椅子に座るセレストの真上に落ちてきたようだ。セレストは、呆気にとられたような表情を浮かべつつも、たくましい両腕でしっかりとドリスの身体を横抱きに支えていた。

「おい、いったい何がどうなって……?」

「殿下!」

 不思議そうな顔で問いかけてくるセレストの首に、ドリスは無我夢中でしがみついた。

腕の中で「うぐっ」と、喉の絞まるような声が聞こえた気がしたが、それでもかまわず、彼の存在をたしかめるようにきつく抱きしめた。

「本物ですよね……? ちゃんと、生きていらっしゃいますよね……?」

「勝手に殺すな。……ドリス、何があった?」

 セレストの両腕が背中と頭に回され、綿毛に触れるような繊細な手つきで撫でられた。伝わってくるぬくもりと、耳に馴染んだ声に安心したドリスは、そこでようやく自分の身体がひどく震えていることに気づいた。

「沈黙の魔女に……会いました」

「リプリィに?」

 ドリスはうなずくだけで、何も言葉が出てこなかった。心に空いた風穴を埋めようと、セレストの体温をたしかめるのに精一杯で、頭がまったく働かなかった。

「どこも怪我はしていないか?」

 ドリスはセレストの首にしがみついたまま、再びうなずいた。

「でも、怖い目には遭ったんだな?」

「……少し」

 本当は、心がぼろ布のように乱暴に引き裂かれた思いだったが、言えなかった。ドリスはセレストの肩口に額を押しつけ、身体の震えが収まるのをひたすら待った。

「……落ち着いたか?」

 ややあって、セレストが問いかけた。小さく深呼吸してから顔を上げると、互いの鼻先がくっつきそうな至近距離にセレストの顔があった。しかも、身体は横向きに抱えられている。我に返ったドリスは、頬を赤く染めた。

「お見苦しいところを……って、きゃあああっ!!」

 セレストの膝から降りようと身体をひねった瞬間、今会ったら一番気まずい人物と目が合った。長椅子のかたわらに立つ相手に、ドリスは腰を抜かしそうになる。

「お、おと……、お父様……っ!? どうしてここに……?」

「仕事だ」

 藍色の団服姿のダレンは眉間に深い皺を刻み、怒っているのか呆れているのかわかりかねる、複雑な表情を浮かべていた。

 それどころか、背の低いテーブルを挟んだ向かいの長椅子には、白い猫を大事そうに抱えてにこにこと笑みを浮かべるパーシバルの姿もあるではないか。ドリスは、喉の奥で「ひっ!」と小さく悲鳴をあげた。

「パーシバル様……いらしたのですか。姫様も……ご無事で」

「いた、っていうか、ここはセレストの執務室だから」

「ダレン様の心中お察しいたしますわ」

 どうやら、ユーフェミアのほうが先に王宮へ戻ってこられたようだ。あの黒猫がユーフェミアを帰してくれたのだろうか。

 頭の中では、嫌な気配に満ちた石造りの冷たい城を思い浮かべつつも、ドリスの身体は勝手に長椅子の背に回り込んでいた。青ざめた顔で頭を抱えてうずくまる。

(ああああああ……、穴か棺があったら入りたい。今すぐ、暗くて静かで狭いところに引きこもってしまいたい……!)

「ドリス、出てきなさい。訊きたいことが山ほどある」

 父に呼ばれて、仕方なく再び長椅子に移動したドリスはセレストの隣に腰を下ろした。妙に気恥ずかしいので、できる限り距離を置こうとしたら、端の肘かけにしがみつくような体勢になってしまった。セレストは半ば呆れたような表情でドリスを一瞥すると、自分の斜め前にある一人がけの椅子をダレンにすすめた。

 ドリスはダレンからいくつか尋問を受けた。銀翼の間で元の姿に戻ってしまったこと、ユーフェミアとともにリプリィの城へ召喚されたこと、リプリィがドリスの肉体を欲していることを話した。

 リプリィが一方的に持ちかけてきた取引の内容については口にしなかった。セレストたちに余計な心配をかけたくなかったからだ。

 王宮では現在、ユーフェミア王女に姿を変えていた悪魔の娘――ドリスと、使い魔の猫――ユーフェミアが銀翼の間から忽然と姿を消したことから、「王女殿下が魔女にかどわかされた」という噂が出回っているらしい。

「わたくしとドリスが二人そろって夜会に姿を見せれば、そのようなくだらない噂など、すぐに払拭されますわ」

「わたしも夜会に出るのですか?」

「当然でしょう? 誰のせいで、こんなややこしい事態になっているとお思いですの?」

 ユーフェミアに痛いところをつかれ、ドリスはしゅんと肩をすぼめた。もとはといえば、ユーフェミアにうっかり呪いをかけてしまったドリスが悪いのだ。

『あなたが自分の気持ちに嘘をつき続ける限り、わたくしは元の姿には戻れませんわね』

 ふと、ユーフェミアを膝に抱えるパーシバルと目が合った。微笑みかけられたが、ドリスはつい露骨に目を逸らしてしまった。

(わたしはまだ、心のどこかでパーシバル様のことを想っている……?)

 自分の胸に問いかけてみるが、答えは出てこない。彼への恋心はもう断ち切ったつもりでいたのだから。

「この際ですから、目一杯着飾っておいでなさい。誰よりも……いえ、わたくしの次くらいに美しいあなたの姿をクラレットたちに見せつけて、昼間の暴言を撤回させるのです!」

「暴言って?」

 憤然と言い放つユーフェミアに、パーシバルが涼やかな目を見開いて訊き返す。

「女の醜い嫉妬ですわ。パーシー様のお耳に入れるまでもありませんわ」

 ユーフェミアはそう言ってはぐらかし、話を打ち切った。

『セレストお兄様を焼き殺そうとした……』

 クラレットの声が脳裏で響く。きっと何かの間違いだと、ドリスは小さくかぶりを振った。

 今度は、ダレンが沈黙の魔女リプリィについて口を開いた。

「しかし、魔力凍結の呪いが、魔力を磨き高めるものだとは……初耳だ」

「わたしも驚きました。てっきり、ただの嫌がらせで呪われたとばかり思っていましたし……」

「リプリィの言う『時が満ちる』とは、お前の魔力が完成する、という意味だろうな」

 ダレンの見解に、ドリスは顎を引いてうなずいた。

「リプリィは、あと少しだと言っていました」

 あと何度かドリスが魔力を暴発させたら、リプリィが理想とする黒鳥姫の器ができあがるのだろう。

「魔力凍結の解呪を急ぐ必要がありますわね」

 パーシバルの膝の上で、ユーフェミアが厳かな口調で言った。

「恐れながら王女殿下、急いで解けるものでしたら、とうの昔に解いております」

「一つ間違うと解呪どころか、黒焦げ……ですものね」

 ダレンは目を見開いたが、すぐに納得したような表情になった。

「解呪方法について、すでにご存知でしたか」

「ええ。そこで、わたくしに考えがありますの」

 その時、コルクの栓を引き抜くような音が鳴り響き、白銀色の煙が巻き起こった。

 窓から射し込む飴色の西日はいつの間にか、薄紫色のはかなげな光に変わっていた。日が沈んだのだ。

 白銀色の煙が晴れると、パーシバルの膝の上で、蜂蜜色の豊かな髪を垂らした少女が空色の瞳をぱちくりとさせていた。

「あらまあ。ごめんなさい、パーシー様」

「僕はかまわないよ。君は羽根みたいに軽いから」

 パーシバルは、ユーフェミアの髪を一房手に取り、恭しく口づけた。まるで一幅の絵画のように美しい二人の姿に、ドリスはつい先ほどの自分の醜態を重ねてしまう。

(同じ構図でも、人によって美しくも滑稽にもなり得るのね……)

 無論、ドリスは後者である。その滑稽な絵面に巻き込まれたセレストは、気の毒としか言いようがない。

「それで、ユフィ。お前の言う考えとは?」

 名残惜しそうな表情を浮かべるパーシバルの膝から隣へ移動するユーフェミアに、セレストが問いかける。ユーフェミアは、丸くふくらんだ花のつぼみがほころぶような、可愛らしい笑みを浮かべて、小さな唇を開いた。

 彼女の口から紡がれた言葉に、その場にいる誰もが耳を疑った。

「……なんだって?」

 眉をひそめて訊き返すセレストに、ユーフェミアは一字一句同じ台詞を繰り返した。

「わたくし、パーシー様との婚約を解消いたしますわ」

 言葉を失う一同に、ユーフェミアはさらに続けた。

「パーシー様には、ドリスと婚約していただきたく存じます」

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