4
再び戻ってきた視界が最初にとらえたものは、若い女性の肖像画だった。
四方が石造りの壁に囲まれた小部屋に連れてこられたドリスは、唇を薄く開けて、意識を吸い寄せられるようにその肖像画を見上げた。
細かな蔓草紋様が刻まれた金色の額縁の中で、二十歳前後の黒髪の女性が穏やかな笑みを浮かべている。緑の光沢を放つ長い黒髪、深い藍色の瞳、なめらかそうな色白の頬、すっと整った鼻梁、少し紫がかった薄紅色の小さな唇。
綺麗な人、という感想を抱くのは少々ためらわれた。
「お前と似ているだろう?」
こっくりとしたワイン色のドレスに身を包む黒髪の女性は、どことなくドリスと似た面差しをしていたのだ。
「この人が……黒鳥姫」
討伐の対象に恋をして仲間を裏切り、親友から呪いをかけられ、苦しんだ末に命を落とした……悲しい女性。
「サレムは天才だった。当時は、魔法師団の次期団長と囁かれていた」
「わたしのようなポンコツとは雲泥の差ですね」
銀翼の間でクラレットから投げつけられた言葉を自嘲気味につぶやくと、リプリィはおかしそうに笑った。
「お前がポンコツなのは、私が呪いをかけたせいだ。潜在的な魔力は、サレムと同等だ」
呪いをかけた張本人に慰められるというのも、おかしな話だ。
「お前を初めて見た時、私は運命を感じた。姿形ばかりではなく、魔力の質までもがサレムとよく似ていた」
サレムの肖像画を見上げるリプリィの横顔を眺めるうちに、ドリスはある違和感をおぼえた。
(この部屋だけ、血の臭いがしない)
広い城館のどこもかしこも、陰鬱とした血生臭い空気でよどんでいたのに、この部屋だけは木漏れ日の射す森のような、清浄な空気に満ちていた。
周囲を見渡すと、四方の壁には扉が一つもない。調度品は何一つ置かれておらず、窓もない。燭台などの光源もないのに、部屋の中は真昼のように明るい。
(魔法師団の塔みたい)
宮殿の隅にたたずむ魔法師団の塔も、外界から隔絶された造りでありながら、内部は真昼のように煌々と明るいのを思い出した。この部屋も、何かしらの結界に護られているのだろうか。
「ここ数日、結構な頻度で魔力を暴発させているな」
リプリィは小さな手を差し伸べ、ドリスの頬に触れた。蒸したてのケーキのようにやわらかいぬくもりは、まるで幼い子どもそのものだ。とても、人の魂を食らって生きながらえている魔女とは思えない。
「いい傾向だ。見違えるほどに魔力が磨かれている」
リプリィは、やわらかな指先でドリスの頬をなぞり、胸――心臓にあたる位置を突いた。
「魔力が、磨かれている……とは?」
「私は何も、お前に嫌がらせをするために呪いをかけたわけではない。サレムを目覚めさせるのに必要だったからだ」
リプリィが口にする言葉がどれも、知らない呪文のように聞こえて、ドリスはただ戸惑うばかりだった。割れた絵皿のかけらを一つずつ与えられ、組み合わせようとしても一枚の絵皿がいつまでたっても完成しないような、もどかしさを覚える。
リプリィは、黒いレースに縁取られた胸元に小さな手を差し入れた。取り出したのは、銀色の細い鎖につながれたガラスの小瓶だった。
「見えるか?」
リプリィが小瓶をかざすと、小指の爪ほどの大きさをした何かが虹色に発光しているのが見て取れた。
「サレムの魂だ」
ドリスは息を飲んだ。目の前で、蛍のように淡い光を放っているものが、二百年も前に消えた命だと言われても、にわかには信じられない。
「二百年前、サレムは私の目の前で命を落とした。素直に戻ってくれば呪いを解いてやったものを、あいつは私ではなくあの男を選んだ。あの男のために、むざむざ死んだのさ」
「吸血伯爵……ですか?」
おとぎ話と同じ顛末だとしたら、サレムが恋した吸血鬼の青年は、彼女を失った絶望の中で、自ら朝焼けに身を投じて灰になって消えたはずだ。
「ああ。だから私はこの手で、サレムを奪ったあの男を殺した。血も肉も骨も、髪の一筋さえも残らず引き裂き、潰し、焼き払った!」
リプリィは突然、かっと目を見開き、小さな唇から覗く犬歯をぎらつかせ、呼吸を荒らげた。
ドリスは思わず自分の身体をかき抱いた。全身に霜が降りたような、刺すような寒気を感じた。
「サレムは肉体を失ってもなお、あの男のそばから離れようとしなかった。ともに天へ昇るつもりだったのだろう。そんなことさせてたまるか。私は、サレムの魂を魔法でこの世にとどめた。これは罰だ。私を裏切った罰だ!」
石造りの壁に、子犬が怒り狂って吼えているような声が幾重にも反響した。その余韻と、彼女の荒い呼吸が折り重なり、奇妙な音となって小部屋の中を駆けめぐる。
沈黙が降りるとリプリィの顔にあどけなさが戻り、彼女は再び鷹揚な口調で語りだした。
「私は決めた。いつか、滅びた肉体の代わりになる器を見つけ出し、サレムをよみがえらせると。そして、今度こそ、永遠に私のそばから離さない」
リプリィはライラックのような淡い紫色の瞳をきらめかせて、艶めいた笑みを浮かべた。
「黒鳥姫の器とは、サレムさんの魂を宿らせるための肉体……?」
「そう。ようやく見つけたのがお前だよ、黒鳥姫」
ドリスは喉を鳴らし、無意識にリプリィから後ずさった。
「わたしは黒鳥姫ではありません……、ドリスです」
「お前の今の名前など、どうでもいい。サレムに肉体を開け渡せば、お前の魂は眠りにつく」
ドリスが一歩後ろへ退けば、リプリィも一歩足を踏み出す。物置のように狭い小部屋では、すぐ壁に追い詰められてしまう。ごつごつとした石壁が背にぶつかった。
「怯えることはない。十年も待ったのだ、今さら焦るものか。お前の魔力が至高の輝きを得る時まで、私はじっくり待つさ」
リプリィはドリスの右手を取り、自分の頬にすり寄せた。まるで、愛しい恋人を思う乙女のように頬を上気させ、しっとりとした吐息を漏らした。
「わたしは、サレムさんの器になるつもりはありません。サレムさんだって……、他人の身体で生き返っても、きっと嬉しくないはずです」
気を抜くと、今にも昏倒してしまいそうだった。しかし、意識を手放してしまったら、もう二度と目覚めないかもしれないという恐怖が押し寄せた。
ドリスは、震える歯の根を食いしばり、自分の胸ほどの背丈しかないリプリィを見下ろした。
「無論、タダでとは言わない。それなりの義理は通すつもりだ」
リプリィはドリスの右手を解放すると、ふと思いついたかのようにこちらを見上げた。
「王女の呪いを解いてやろう」
ドリスは、虚をつかれたように目を見開いた。
「お前が今、最も強く願っていることだろう? 自分のせいで猫にしてしまった王女を、元の姿に戻すこと。違うか?」
ドリスは否定も肯定もできず、アメジストのように輝くリプリィの瞳を見つめた。
「まさか、自力で王女を救えるなどと思っていないだろう?」
リプリィの言うとおりだった。自分はあまりにも無力だ。人を傷つけたり呪ったりすることはできても、癒したり喜ばせたりすることはできない。
それでも、今ここで首を縦に振ることが正しいとは思えなかった。
ドリスがためらっているのを察してか、リプリィは「ふむ」と小さな顎に手を添えた。
「では、こうしよう」
リプリィはつぶらな目を三日月の形に細めて微笑み、何やら短い呪文を唱えた。
彼女の背後に、青白い光を放つ靄のようなものが浮かびあがった。
ゆらゆらと陽炎のように揺れながら、やがて人の姿をかたどる。
青白い光が失せると、一人の少年が立っていた。
「殿下……?」
朝焼けを溶かしたような濃い蜂蜜色の髪、澄んだ空色の瞳、年頃の少年にしてはやや小柄だが、剣術で鍛えられた体躯は駿馬のようにしなやかでたくましい。
何の前触れもなく目の前に現れたセレストの目は、焦点が定まっていない。咄嗟に駆け寄ろうとするドリスを、銀色に冴える大きな三日月が遮った。
リプリィの手には、大きく湾曲した鎌が握られていた。
夜色のドレスに身を包んだ黒髪の彼女が鎌を持つ姿は、おとぎ話に登場する死神を彷彿とさせた。
「お前はもっと、自分の立場を思い知るべきだ」
リプリィは、鎌を持つ手をゆるやかに掲げた。彼女が次に何をするのか無意識に察したドリスは、喉を震わせて「だめ……」と懇願する。
「お前には、ためらう権利も拒む権利もない」
「やめて!」
ドリスの叫びは届かなかった。
リプリィは、自分の身の丈ほどある鎌を軽々と振りかざし、後方へと大きく薙いだ。
うつろな眼差しで立ちつくすセレストの腰の高さで、彼の胴体がぱっくりと裂けた。
「いやああっ、セレストさまああああああっ!!」
喉がかき切れそうなほどの悲鳴は、白銀色の氷雪となり、四方の壁と床を瞬く間に凍てつかせた。光を散らしながら上下左右を這う氷は、サレムの肖像画だけを避けているようだった。
「あ……っ!」
肩を上下させ、荒れた呼吸を繰り返すドリスの息は、湯気のように白い。冷気でひりつく頬を、熱い涙が伝い落ちた。
「次は本物を斬る」
リプリィは鎌を器用に振り回し、床に突き立てた。すると、ドリスが無意識に放った魔法の氷雪は一瞬で霧のように立ち消えた。リプリィに胴を裂かれたセレストの姿も、消えていた。
「ま、幻……?」
ドリスは膝から力が抜け、その場に座り込んだ。安心したせいか、さらに涙がこぼれる。
両手で顔を覆うドリスに追い打ちをかけるように、リプリィの楽しげな声が降ってきた。
「美しいな、現王太子は」
まるでリズムを刻むように、リプリィは鎌の柄で床を叩く。
「憎らしいほど、あの男にそっくりだ。実に、
ドリスは涙に濡れた顔を上げた。
民話の『沈黙の魔女』では、魔女は金髪碧眼の美しい人間を好んでつかまえる、と伝えられている。さらわれた人は魂を抜かれ、もの言わぬ人形となって、魔女の古城で永遠の時を過ごすのだと。
「あなたが……似たような容貌の人ばかりさらうのは……、吸血伯爵に似ているから……?」
「いかにも」
「あなたにさらわれた人たちは、今、どうしているんですか……?」
「私は魂さえ食えれば、肉体に用はない。抜け殻は、骨の髄まで使い魔どもに食わせてやった」
言葉を失い、両目を見開くドリスに、リプリィは鼻先を近づけた。血の臭いが混じった吐息が、ひどく不快だった。
「これ以上、お前が拒むのなら、大切な王太子は鴉の餌だ」
「…………っ!」
三日月の形に細められたリプリィの目は、セレストをかたどる幻を切り裂いた鎌のように、禍々しい光を放っていた。
「前向きに考えるといい。お前が身を捧げれば、王太子には手を出さないと約束しよう。こう見えても、私は義理がたいからな。どこぞの姫たちのように卑怯な真似はしない」
クラレットたちのことだろうか。そういえば、彼女の額の傷は大丈夫だろうか。
頭の片隅でぼんやりと考えるドリスの背に、リプリィの細い両腕が回された。
「私の愛しい黒鳥姫。時が満ちたら、迎えに行く」
刻印のように、十年前と同じ言葉を囁かれる。
触れていた体温が消え失せ、突然、目の前が真っ白になった。
天も地もない、ただ白いだけの空間に放り出されたかと思った次の瞬間、視界に飴色の光が広がり、同時に胃の腑が喉元へせり上がるような感覚に襲われた。
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