紅茶に注いだミルクのように、ぐるりと渦を描きながら、光に満ちた淡色系のサロンはたちまち、生気の感じられない暗色系の空間へと変化した。

 一瞬、ランカスタ村の伯爵邸――自室に帰ってきたのかと思った。

 窓からの光を拒絶するように引かれた黒いカーテン、透かし模様をほどこした灰色の壁紙、壁の燭台とテーブルの燭台に灯る橙色のはかなげな炎。

 心穏やかな引きこもり生活を送っていた日々が遠い昔のように感じられて、懐かしさが押し寄せる。

 しかし、郷愁の念はすぐに消えてなくなった。お気に入りの引きこもり空間と見た目こそよく似た部屋は、ひどく不快な『何か』に満ちていた。

「う……っ」

 ユーフェミアが苦しげな声を漏らし、ドリスの胸に顔をうずめた。純白の毛に包まれた身体が小刻みに震えている。猫は、人間の何倍も鼻がきくと、何かの本で読んだことがある。ユーフェミアは、ドリスよりも敏感にそれを感じ取ってしまったのだろう。

 鉄錆のような、鼻をつく臭い。

 ここには、血の臭いが充満していた。

 部屋の両端には二つの扉があった。どちらかが廊下に通じていて、もう一方は奥の続き間へつながっていると思われる。

 どちらの扉を開けようかと迷っていると、どこからやってきたのか、目の前に一匹の黒猫が現れた。鉤型の尻尾を持った、細身の黒猫だ。瞳は金茶色をしている。

「あなた、さっきの……?」

 ユーフェミアの部屋のバルコニーにいた黒猫だ。あの時、ドリスはなぜか言いようのない寒気を感じたのだった。

「ここはどこ?」

 ドリスは、何のためらいもなく黒猫に話しかけていた。まるで、この猫が人の言葉を話せるのだと知っているかのように。

「私の城さ」

 答えたのは黒猫ではなかった。

 声のするほうに目を向けると、漆黒のクロスがかけられた丸テーブルに、一人の女の子が頬杖をついてこちらを見ていた。

 六、七歳くらいの幼い女の子だった。

 背中までゆったりと波を打つ豊かな髪は、鴉の濡れ羽のような艶やかな漆黒。小さな体躯を包む膝丈のドレスも夜の色。燭台の明かりに照らされてよくわからないが、星を宿したように輝く瞳はおそらく青か紫。

 まるで精巧な人形のように、幼いながらも完璧に整った顔立ちをした女の子は、紅を刷いたように赤い唇を開き、見た目の幼さとは不釣り合いな妖艶な笑みを浮かべた。

「ひさしいな。私の黒鳥姫こくちょうひめ

 呼びかけられた途端、ドリスの頭の中で、かちりと鍵が開くような音が聞こえた。

『やっと見つけた。――黒鳥姫の器』

 十年前、王宮のバラ園で迷子になったドリスは、自分と同じ年頃の女の子と出逢った。

 その子は、幼いドリスの身体をそっと抱き寄せ、呪文のような言葉を唱え、立ち去った。

 去り際に彼女はこう言ったのだ。

『我が名はリプリィ。時が来たら、お前を迎えにくる』

 淡い紫色の瞳をきらめかせ、洗練された管楽器の音色のような声で、たしかに告げた。

 当時のドリスは、何を言われているのかわからず、茫然とその言葉を聞き流していた。

「沈黙の魔女……」

「覚えていてくれたか。僥倖だ」

 女の子は――沈黙の魔女リプリィは、濃い睫毛に縁取られた目を細めて、喜びを噛みしめるかのように、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「沈黙の魔女、ですって……?」

 人間の姿だったら、おそらく蒼白な顔をしていると思われるユーフェミアが頭をもたげた。しかし、再び力を失ったように、ぽふりと沈み込む。

「姫様!?」

「王女には眠っていてもらう。お前と二人で話がしたい」

 リプリィは、この白い猫がユーフェミア王女だと心得ている様子だった。使いこまれた質感の椅子から飛び降りると、小さな歩幅で二つあるうちの片方の扉に向かって歩きだした。

「おいで、黒鳥姫。王女はそこに置いていくといい。彼に世話をさせる」

 リプリィの声に応えるように、先ほどの黒猫がテーブルの上で尻尾を揺らす。黒猫は灰色の鼻をつんと上向け、口を開いた。

「王女は怪我をしてる。早く手当てしないと死ぬよ」

「えっ!?」

「嘘だよ、大した傷じゃない。さっさとそこに置いて」

 うろたえるドリスを無視して、少年のような声で喋る黒猫は、右前脚を顔の横に挙げた。

 すると、テーブルの上に籐で編んだ籠が音もなく現れた。籠の中には、やわらかそうな布が重ねて敷き詰められている。

 ドリスは黒猫にうながされるまま、ユーフェミアの身体をそっと籠の中に横たえた。規則正しい寝息とともに、丸まった背中が上下するのを確認して、安堵の息をつく。

「あなたを信じていいの?」

「信じる信じないは、あんたの勝手だ。早く行って」

 疑惑の眼差しで問いかければ、黒猫はすげなく言い返して顎をしゃくった。

 ドリスは後ろ髪を引かれる思いでユーフェミアを残し、リプリィの後について扉をくぐった。

 部屋の外は、石畳のような廊下が左右に伸びていた。廊下の両側には、似たような扉と燭台が等間隔に並んでいる。隙間風が吹いているのか、燭台の明かりは小さく揺れており、足元から伸びる影を不気味に揺らす。

 石畳のくぼみに靴の踵を引っかけないよう慎重に歩くドリスの前を、リプリィは長い黒髪を揺らしながら小さい歩みを進める。廊下や階段の踊り場に飾られた風景画はどれも、血生臭い空気には似つかわしくない、光と色にあふれた力強い作品ばかりなのが気になった。

 廊下の幅や部屋数から、結構な大きさの城館と推察できそうだが、リプリィの他には人の気配が感じられない。住人はおろか、使用人の姿すら見えなかった。その代わり、天井を奔放に旋回する蝙蝠の鳴き声がよく聞こえた。廊下を横切る黒い蜥蜴の姿もあった。

(血の臭いさえなければ、とても住み心地のよさそうなお城なのに)

 普通の少女なら不気味に感じる寂しい色合いの内装も、昼か夜か判断のつかない薄暗さも、人の生気が感じられない静けさも、薄闇の中でうごめく蝙蝠や蜥蜴も、何もかもがドリスの好みに当てはまっている。

 ただ一つ、肌にまとわりつくような重苦しい血の臭いを除いて。

(リプリィの城ということは、ここは王都ではないのよね……?)

 沈黙の魔女リプリィの根城は、ランカスタ村から少し離れた山奥にあると言われている。しかし、空間をねじ曲げる魔法がかけられているため、場所はいまだに特定されていない。

「本来ならば、お前をここに迎えるのはもう少し先のはずだった」

 前を歩くリプリィが唐突に切り出したので、ドリスは驚いて目をみはった。

「時はまだ満ちていない。だが、こうでもしなければ今頃、お前は永い眠りについていた」

 リプリィは足を止めて振り返り、どこから取り出したのか手に持った銀のフォークを指先でくるくると回した。

 ドリスの脳裏に、タンポポ色のドレス姿の姫君たちに取り囲まれる場面がよみがえった。

「助けてくださったのですか……?」

「言っただろう。まだ死なれては困ると」

 リプリィが指先に挟んだフォークに、ふっと息を吹きかけると、フォークはまるで蝋燭の炎のようにかき消えた。そして、再び背を向け歩きだす。リプリィの魔法に一瞬見とれてしまったドリスは、遅れて後を追った。

 やがて回廊に差しかかると、空を覆い隠すように鬱蒼と茂る木々の隙間から、金糸のように細い木漏れ日が幾筋か射し込んでいるのが目にとまった。まるで、暗い森の中で精霊がひそやかに爪弾くハープのように見えた。

 建物の中にたちこめる血の臭い、美しい風景画、闇色の森、金色の木漏れ日。

 ここには、生と死が同居しているように思えた。

「あの」

 前を歩くリプリィへ、ドリスは単刀直入に言った。

「あなたにかけられた魔力凍結の呪いを……、解いてくれませんか?」

 すると、リプリィはぴたりと足を止め、長い黒髪を旗のように翻して振り返った。大きく見開かれた淡い紫色の瞳から、見た目どおりの幼さが一瞬だけ滲み出た。

「そこで私が『はいどうぞ』と、うなずくとでも思うか?」

「うなずいたら、しめたものだと思って」

 真顔で答えると、リプリィはまぶしいものでも見るかのように目を細めた。

「似ている」

「え?」

「何も考えていないように見せかけて、その実、図々しくてふてぶてしいところが」

「どなたに似ているのですか?」

「黒鳥姫さ」

 見上げてくるリプリィは、ドリスの中に別の相手を見ているようだった。

「それは……サレムさんのことですか?」

 ドリスは、ためらいがちに問いかけた。

 もとは宮廷魔法使いだったリプリィが、呪いの重ねがけという禁呪に手を出して追われる立場になったきっかけは、親友のサレムが魔法師団を出奔したことだ。不用意に触れてはいけないと思いつつも、訊かずにはいられなかった。

「サレムを知っている者は数少ないはずだが」

「あ、魔法師団の方から聞きました。……すみません」

「なぜ謝る?」

「いえ、その、人様のデリケートな領域に図々しく踏み込んでしまった気がして」

「気にするな、二百年も前の話だ。むしろ、話す手間が省けた」

 ふふっと笑うリプリィの頭上を、黒い蝙蝠がガラスを引っかくような甲高い鳴き声をあげながら旋回する。

「いずれ、お前はサレムと『同化』する。知っておいたほうがいい」

「……え?」

 背中に氷のかけらを入れられたような、震えが走った。

 幼い女の子の姿をした魔女は、嫣然とした微笑みを浮かべた。

「おいで。サレムに会わせよう」

 リプリィが黒い靴の踵を鳴らすと、ドリスの視界は靄がかかったようにぼやけた。

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