6
王侯貴族の娘たちが集う銀翼の間は、まぶしいほどのタンポポ色にあふれていた。
「ごきげんよう、ユーフェミア様」
最奥の長椅子に悠然と腰かけるクラレットは、タンポポ色のドレスと同系色の羽根扇を口元に添えて微笑みかけた。彼女の隣では、似たような色とデザインのドレスに身を包んだマリアンナが、すでに勝ち誇ったような顔つきで顎を反らしている。華奢な腕には、野太い鳴き声をあげる銀灰色の猫を抱いていた。
「……ごきげんよう」
「あら、ユーフェミア様。今日はお顔の色がよろしくありませんわね」
「お姉様に負けるのが怖いのよ」
「まあ、マリアンナったら」
くすくすと笑い合うクラレットとマリアンナを無視して、ドリスは手近なところにある椅子に勝手に腰を下ろした。アザミ色のドレスの裾が足元に広がる。
「昨夜、取り決めたとおり、どちらかが間違えるか暗唱できなかった時点で負け。敗者は勝者の言うことを一つ聞く。よろしいですわね?」
一様にタンポポ色のドレスをまとった令嬢たちは、期待と好奇の眼差しに満ちた視線を向けてくる。
ドリスは、腕の中の存在をたしかめるように、わずかに力をこめた。本当なら温かく頼もしいはずの白い猫が、今は鉛のように重く感じられる。鳴き声ひとつあげないユーフェミアを、ドリスはちらりと盗み見た。
(姫様……)
付け焼刃で読んだ詩集の内容は、ちっとも頭に入らなかった。
『失恋のショックで、あなたはわたくしに呪いをかけたのですわ』
ユーフェミアの言ったことが本当だとしたら……。
(わたしは、なんて恐ろしいことを……!)
呪いをかけたきっかけが失恋だとしたら、呪いを解くにはどうしたらいいのだろう。混乱した頭では何も思いつかない。
「……様、ユーフェミア様」
でも、何か考えなくては、ユーフェミアは一生猫のままだ。
(猫って何年生きられるのかしら……? 一刻も早くなんとかしないと……)
「ユーフェミア王女!」
甘ったるい香りがただよう空気を切り裂くような声に、ドリスははっと顔を上げた。クラレットやマリアンナを含め、何十もの瞳がこちらを見ている。
「ずいぶんと余裕ですこと。もう勝ったような顔までなさって」
「自信過剰だわ」
穏やかながらも刺のある口調で言うクラレットに追随するように、マリアンナも尊大な口調で言った。思案にふけるドリスの顔が、彼女たちには余裕綽々の表情に見えたようだ。
(そういえば、姫様は勝ったらクラレット様に何を望まれるのかしら?)
物騒なことにならなければいいのだけれど。
「わたくしが勝ったら……」
クラレットはタンポポ色の羽根扇を顎の下へずらし、果実のような紅色の唇を薄く開いた。
「わたくしを、セレストお兄様――王太子殿下の婚約者候補として、国王陛下に推薦していただきますわ」
「え……?」
「なんですって……?」
ドリスが漏らした声に重ねて、ユーフェミアが小さくつぶやいた。幸い、猫が言葉を発したことに誰も気づいていない。
「その気になれば、父に頼むことは可能ですわ。しかし、わたくしは敢えてユーフェミア様から国王陛下に口添えしていただきたいのですわ」
ドリスの腕の中で、ユーフェミアが身を硬くしているのが伝わってくる。
「大好きなお兄様に、大嫌いなわたくしを紹介する。あなたにとって、これほどの屈辱はないでしょう、ユーフェミア王女?」
くすくすくす……と、クラレットは小鳥のように可憐な声をあげて笑った。隣に座るマリアンナも高らかに笑う。彼女たちにつられるようにして忍び笑いを漏らす令嬢もいれば、不愉快そうに眉根を寄せる令嬢もいた。
(殿下の、婚約者候補……)
セレストはいずれクレシアの国王となる。彼の婚約者候補は、未来の王妃候補を意味する。
「ユーフェミア様、あなたの望みは?」
クラレットは、ひときわ楽しそうに微笑んだ。美しい青灰色の目から垣間見えた悪意に、ドリスは言いようのない寒気を感じた。
すると、腕の中にいたユーフェミアが頭をもたげ、ドリスの肩に鼻をすり寄せてきた。
小声で「合わせるのです」と囁かれる。ドリスは小さく顎を引いた。
「わたくしが勝ってから申し上げますわ。同じことを二度言うのは好きではありませんの」
ドリスが口を開閉させ、ユーフェミアが細く高い声で朗々と宣言する。
クラレットの眉がぴくりと跳ね上がると、ユーフェミアは駄目押しの一言を相手にぶつけた。
「早く始めましょう。そして、早く終わらせましょう」
花の蜜と紅茶に焼き菓子、化粧の香りで満たされたやわらかな空気が、ぴんと張り詰める。
「ええ、始めましょう」
クラレットは羽根扇を持ち替え、片手を挙げた。壁際に控えていた女官が、珊瑚色をした螺鈿細工の箱を持ってやってくる。上部が円形にくり抜かれた箱は、マリアンナの前に置かれた。
マリアンナは銀灰色の猫を抱いたまま、箱に片手を入れて中を探りはじめる。箱から抜いた手にあるのは、小さく折りたたまれた羊皮紙だった。紙を開いたマリアンナは、舌っ足らずな口調で「三十六番」と読みあげた。
「先攻を譲って差し上げますわ、どうぞ」
鷹揚な口調でクラレットが言った。
課題の詩集『クレシア愛の名詩百選』は、全百編の詩が詠まれた年代順に一から百までの通し番号が振られている。詩の内容はもちろん、順番も正確に把握する必要があるのだ。
しばしの逡巡の後、ユーフェミアが声を発した。ドリスは合わせて口を開く。
「『
この詩はよく知っている。母の好きな詩だ。父が王宮から戻らない日が長く続くと、寂しさを紛らわすために口にしていた。たしか、この後は「雨よ雨、その清らかな雫で、わたしよりも先にあの人の袖を濡らさないで」と続くのだ。
「『雨よ雨』……」
ユーフェミアが次の句を口にするのと、周囲からざわめきが起こるのと、ほぼ同時だった。
勝負の行方を見守る令嬢たちがひそひそと何かを囁き合っている。彼女たちは、答え合わせをするための本をそれぞれ手にしていた。
「残念ですわね、ユーフェミア様」
クラレットが、ふふっと笑った。
「ユーフェミア王女、不正解よ」
マリアンナが勝ち誇ったようにドリスを指差し、高らかに言った。
「そ、そんなはずは……?」
詩集の内容はそれほど覚えていないドリスでも、ユーフェミアの暗唱した詩が間違えていないことくらいわかる。腕の中のユーフェミアは、毛を逆立ててクラレットたちを睨んだ。
クラレットは背に手を回し、一冊の本を取り出した。それは、勝負の課題である詩集ととてもよく似た装丁をした、まったく別の書物だった。
「わたくしが指定したのはこちら、『東方の古典、百の
はるか昔に東方の大国で生まれた諺を集めた書物だ。他国の文化や学問を積極的に取り入れるクレシアでは、誰もが子どもの頃から慣れ親しんでおり、初等教育の教本として活用されている。
「クラレット様……、だましたのですか?」
唸り声をあげるユーフェミアを懸命に押さえながら、ドリスは震える声で問いかけた。
「まあ、なんて人聞きの悪い! ご自分の間違いをわたくしのせいになさるおつもりですの?」
クラレットはわざとらしく天井を仰いだ。
「昨夜は、お疲れでいらしたようですものね。聞き間違えても仕方がありませんわ」
「夜会に出る元気はなくても、婚約者といちゃつく元気はあるのね」
マリアンナが、耳障りなほどに高い声できゃらきゃらと笑う。
「まあ、いけないわ、マリアンナ。そんなこと、思っていても口にしては駄目よ。ほら、ユーフェミア様が恥ずかしがっていらっしゃるでしょう?」
笑い合うクラレットとマリアンナに続いて、他の令嬢たちもひそやかな笑い声をあげる。クラレットたちに合わせているだけなのか、心から楽しんでいるのか、ドリスにはわからない。
「さあ、次はお姉様の番ね。お姉様が正解なされば勝ちよ」
マリアンナは嬉々として番号札の入った箱に手を突っ込み、がさがさと探る。
「ユーフェミア様がアンブラー公爵家に嫁がれる頃には、わたくし、あなたの
クラレットのひときわ高らかな笑い声が、天井の高いサロンに響き渡った。
(はじめから仕組まれていたんだわ……)
ドリスは唇をぎゅっと引き結び、腕の中にいるユーフェミアを強く抱きしめようとした。
しかし、アザミ色の袖に包まれた華奢な腕は宙を掻いた。
いつの間にかドリスの腕から抜け出したユーフェミアが、目の前のテーブルを蹴って、向かいにいるクラレットに飛びかかろうとしていた。
「許せませんわ、この卑怯者!」
「きゃあああっ!」
ユーフェミアはクラレットの頭にしがみつき、金茶色の見事な巻き髪を激しくかきむしった。気が動転しているのか、叫んだのが猫であることに誰も気づいていない様子だ。
「いやあっ、離れて!」
「お姉様! だ、誰か助けなさいよっ!!」
マリアンナが周囲に向かって叫ぶが、令嬢たちも女官たちも皆、怯えて動けずにいる。
そうこうしているうちに、ユーフェミアの爪がかすったのか、クラレットの額に血が滲んだ。その血を見た令嬢たちが青ざめて悲鳴をあげる。
「この……っ、バカ猫!」
「ふぎゃうっ!」
クラレットは頭を上下左右に振ってユーフェミアの身体を引きはがし、テーブルに叩きつけた。ユーフェミアはくぐもった鳴き声をあげ、気を失った。
「姫様!」
皆の注意がクラレットと白猫に向けられているおかげで、ドリスの呼び声を聞きとがめる者はいなかった。ドリスが、ぐったりとしているユーフェミアを抱き上げようとするより早く、クラレットが白い毛のかたまりを乱暴につかみあげた。
「か、返してください!」
「ええ、返して差し上げますわ」
クラレットの眉から目尻、頬にかけて、赤い線が細く描かれた。白い布切れを手に慌ただしく駆けてくる女官を制し、ユーフェミアの身体を高々と持ち上げる。
「立派な毛皮にして、お返ししますわ!」
クラレットのもう片方の手には、銀製のフォークが握られていた。
甘いお菓子をたしなむための銀器の先端は、間違いなくユーフェミアに向けられていた。
「だめ……、ああっ!」
ドリスはクラレットを止めようとテーブルに身を乗り出すが、ドレスの裾を踏みつけ、ティーセットやお菓子もろとも倒れ込んでしまった。食器が割れるのも、ドレスに紅茶の染みができるのもかまわず、身を起こして再び手を伸ばす。
周囲から悲鳴があがる中、クラレットは大きな目をさらに見開いてフォークを振りかぶった。
「やめてえええええっ!!」
喉がつぶれるかと思うくらいの大声をあげたのは、生まれて初めてだった。
頭の奥が熱くなって、耳の奥では風の唸るような音が響く。全身が激しく脈打ち、喉が熱い。
次の瞬間――空気が破裂するような音が響き、目の前が白銀色の煙で覆われた。
気がつくと、ドリスは腕の中に、小さく脈打つ大切な命を抱きしめていた。がむしゃらに、クラレットからユーフェミアを取り戻したのだろう。
「よかった……」
やがて白銀色の煙が晴れ、視界が開けてくる。
「あなた……どなた?」
なぜか、呆気にとられたような顔をしているクラレットが、こちらを指差して問いかけた。
マリアンナも、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしている。
他の令嬢や女官たちも、妙なものを見るような、怪訝そうな顔つきをしていた。
その時、白猫が小さく身じろぎ、まぶたを開けた。弱々しい声で問いかける。
「ドリス? あなた……どうして」
ドリスが首をかしげると、ユーフェミアのふわふわとした白い身体に、絹糸のようにまっすぐな黒髪が、はらりとかかった。その身に纏っていたのは、夜空を思わせる藍色のドレス。ドリスが大事にしている普段着だった。
王女に姿を変えていた魔法が、解けたのだ。
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