やわらかな春の日差しが降り注ぐ南向きの部屋で、ドリスは姿見に映る自分と向かい合っていた。

 淡いミント色のドレスをまとい、豊かに波打つ蜂蜜色の髪を複雑に編み込んでまとめ、両耳の下から後れ毛を垂らした、空色の瞳が愛らしい姫君が、鏡の中でこの世の終わりのような顔でうなだれている。

「わたくしの姿で、そのようなしみったれた顔をなさらぬよう、申し上げたはずですわよ?」

「記憶にございません……」

 メリンダがかけた変身魔法で、ドリスは再びユーフェミアの姿に転じていた。

 人払いをした王女の私室にて、虚ろな眼差しで姿見に背を向けて千鳥足で移動すると、幅の広いソファに身を投げ出すように腰を下ろした。テーブルの中央に飾られている花器のかたわらで、ユーフェミアが純白の尻尾を揺らしながら喉を鳴らした。

「過去の記憶はさておき、今目の前にあるものを完璧に頭に叩き込んでもらいますわよ。さあ、きりきり読んでくださいな」

 ユーフェミアは薄桃色の鼻先で、卓上に置かれた豪華な装丁の本を示した。

「なぜ、このような時に詩集なんか……」

「仕方がないでしょう? わたくしだって、まさか、また猫になってしまうとは夢にも思いませんでしたもの。自分でできるなら、あなたに代役など頼みませんわ」

 痛いところをつかれたドリスは、しぶしぶ卓上の詩集を手に取った。どこを開いても、愛や恋を綴った、砂を吐きそうなほどに甘ったるい詩ばかりを集めた『クレシア愛の名詩百選』は、王侯貴族の婦女子のたしなみで、最低でも二十編はそらんじることができて当然なのだという。ドリスも一通り読んだことがあるが、残念ながらこれっぽっちも共感できなかった。

「殿方のように剣技や騎馬で勝負をするわけには参りませんもの。女性はあくまで優雅に美しく、知性と美しさでもって戦うのですわ」

 聞けば、ユーフェミアは昨晩、従姉妹のクラレットから挑戦状を叩きつけられたらしい。昼間のお茶会で、ユーフェミア(とドリス)から受けた屈辱がよほど悔しかったのか、「正々堂々と勝負いたしましょう!」と、よくわからない因縁をつけてきたというのだ。

 殿方の間で言うところの、決闘らしい。

 勝負の内容は、この『クレシア愛の名詩百選』の中から無作為に選ばれた詩を互いに暗唱し合うという、いたってシンプルなものだった。

「昨日のように口パクで乗り切ることができたらいいのですが、念には念を、ですわ」

「それにしたって、勝負が今日というのは急すぎではありませんか?」

「クラレットはせっかちですから」

 ユーフェミアは、ふんっと鼻を鳴らした。昼食や着替えの時間を差し引けば、暗記に費やせるのはせいぜい一刻程度だ。

「クラレット様とマリアンナ様にお会いするのは、気が引けます。わたしのせいで不快な思いをさせてしまいました……」

「あなたが責任を感じることはありませんわ。実行犯はわたくしですし、先に仕掛けてきたのはあの二人ですもの」

「あんなふうに、大勢で一人を笑うのは……楽しいことなのですか?」

 異質なものを排除しようとする姫君たちの笑い声。初めて触れるかたちの悪意に、ドリスはあの時まったく身動きが取れなかった。

「楽しかろうが楽しくなかろうが、力のある人間に倣い、従うのが宮廷作法ですわ」

 大勢の令嬢たちが皆一様に緑色のドレスをまとう中で、中心にいるクラレットとマリアンナは、似たようなデザインながらも一際豪奢なドレスに身を包んでいた。あれこそが、宮廷の力関係の縮図なのだろう。

「わたくしがあの二人を黙らせれば、サロンの雰囲気を変えられると思いましたの」

 ふさふさとした純白の尻尾が、タンポポの綿毛のようにふわりと揺れる。

「わたくしが離宮に引きこもりきりで、ろくに王宮へ顔を出さなかったばかりに、あの二人をのさばらせることになってしまいましたわ」

「姫様も引きこもりでいらっしゃるのですか?」

 それまで陰が差していたドリスの表情が、ぱあっと明るく輝いた。

「一緒にしないでくださる? わたくしはあなたと違って、暗くてじめじめしたところよりも、日の当たるところのほうが好きですわよ」

「それは、引きこもりとは言いません……」

 せっかく、貴重な引きこもり仲間が見つかったと思ったのに。ドリスは、がっくりと肩を落とし、題名が箔押しされた詩集を開いた。

「ドリス」

 顔を上げると、ユーフェミアは小さな青い宝玉のような瞳をきらめかせた。

「あなた、本当は好きな方がいるのではなくて?」

 一瞬、呼吸が止まった。心臓を鷲づかみにされたような気分だった。

「どうなさったのですか? やぶからぼうに」

「女の勘ですわ」

「か、勘違いでは?」

 声がうわずるのを聞き逃してくれなかったユーフェミアは、たたみかけるように続ける。

「もしも、わたくしの勘が当たっているとしたら、わたくしが猫になった理由との辻褄が合いますの」

「……おっしゃっていることが、よくわかりません」

 ドリスは、こくりと喉を鳴らした。ユーフェミアの言葉の意図はわからない。けれど、彼女がこれから口にしようとしていることは、きっとドリスの心に悪い影響をおよぼす。根拠はないけれど、そう思った。

「わたしは……好きな人などいません」

「失恋したのでしょう? 相手の方が婚約してしまったから」

 否定の言葉を口にしても、ユーフェミアはまるで風のようにさらりと、ドリスの言葉尻を掬いあげてしまう。

「失恋のショックで、あなたはわたくしに呪いをかけたのですわ」

「違います!」

「昨日、この部屋で、あの方と接するあなたの様子を一部始終見ていましたわ。まぎれもなく、恋する乙女の瞳でしたわ」

『好きだよ』

 耳朶を優しくなぞるような、蜂蜜のように甘い声が脳裏によみがえる。

 あの言葉も笑顔も、ドリスに向けられたものではない。いつものあの人とあまりに違うから、驚いただけだ。けっして、何かを期待したわけじゃない。

「やめて……、やめてください」

 心臓の音がうるさい。まるで全身が心臓になってしまったかのように、激しく脈打つ音が頭に響く。自分の鼓動に押しつぶされてしまいそうな気がして、ドリスは大きく首を振った。

 ハープを爪弾くような高く澄んだ声で、ユーフェミアは抑揚のない口調で言った。

「あなたはパーシー様のことが」

「やめてっ!」

 ぱりん! と陶器の割れる音がした。ユーフェミアのかたわらにあった花器が、弓矢で貫かれたかのように割れていた。いつの間にか床に飛び降りていたユーフェミアが、じっとこちらを見上げる。

「あ……っ」

 ドリスは肩で息をしながら、上下する胸を押さえた。頭の奥がぐらぐらする。魔力が暴発したのだと気づくのに、多少の時間がかかった。

「あなたが自分の気持ちに嘘をつき続ける限り、わたくしは元の姿には戻れませんわね」

 同い年の少女とは思えないほど、ユーフェミアの物言いは達観していた。

「あなたが動かないのでしたら、わたくしは自分で呪いを解く方法を探しますわ」

「姫様、それはどういう……」

 ドリスが問いかけようとしたその時、藍色の団服に身を包んだ魔女が姿を現した。

「あらら、なんだか中途半端に暴発しちゃったねえ。ドリス、何があった?」

 メリンダが指先で宙をなぞると、水を散らして割れた花器は一瞬で復元された。

「あの……わたし……」

 心の内を暴かれた驚きと恐怖がないまぜになって、言葉が見つからない。

「大したことではありませんわ。わたくしがドリスを驚かせただけですの」

 答えに詰まるドリスに助け舟を出したのは、優雅に尻尾を揺らすユーフェミアだった。

「だけって……けっこう大事おおごとだよ、姫様。誰も怪我しなかったからいいけどさ」

「以後気をつけますわ」

 しれっと言い放つユーフェミアに嘆息するメリンダは、ふと窓に目を向けた。

 窓の向こう、バルコニーの手摺に一匹の猫がいた。首に鈴をつけた、細身の黒猫だ。

 鉤尻尾を風になびかせる黒猫は室内を一瞥すると、手摺からひらりと飛び降り姿を消した。

 その直前、黒猫の視線がドリスに向けられた。光の加減で茶にも金にも見える不思議な色合いの瞳は、たしかにドリスをとらえていた。

 ドリスはなぜか黒猫に既視感をおぼえると同時に、背筋に寒気を感じた。

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