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まるで謎かけのようなメリンダの言葉に、ドリスは震える両手を胸の前できつく握りしめた。
……と、その時、すぐそばで大きな物音がしたので、ドリスは驚いて肩をすくませた。机の上にいたユーフェミアは、「ふぎゃっ!」と猫らしい声をあげて飛びのいた。
いつの間にか、紐綴じの古びた書物が山と積まれていた。
「待たせたな、メリンダ」
姿を現したのは、銀灰色の髪に眼鏡の若い男性だった。襟の詰まった藍色の団服を身に着けている。
ドリスの首がのけぞりそうになったのは、男性の背丈がやたらと高いからだ。ひょろりと痩せた長身の男性は長い指を眼鏡に添え、あたりを見回した。
「ここは小動物の遊技場か?」
声に悪意がまったく感じられなかったので、彼は心から思ったことを口にしたのだろう。無表情だが、眼鏡の奥の青い瞳は、水鳥が羽根を休める海面のように静かで温かみのある色をしている。
「小動物で悪うございましたわね」
ユーフェミアが小声で毒づいた。
男性はドリスと視線が合うと、銀縁眼鏡をわずかにずらした。もの言わぬ眼差しに気圧され、ドリスは半歩後ずさった。
「お前がドリス・ノルマンか?」
「は、はい」
落ち着いた、威厳のある声。ドリスは声をうわずらせながらも、背筋を伸ばして答えた。
「悪魔の娘、か」
「はい」
「自分で認めてどうする」
眉間に皺を寄せたセレストが嘆息した。
「ちょっと団長、何この量?」
紐綴じの書物の山にメリンダが驚いて声をあげると、眼鏡の男性は春空の下にたたずむ大樹を思わせる、ゆるやかな口調で答えた。
「地下の書庫で机の脚に右の脛を打ちつけて床に転倒した際、あらかじめ仕分けていた資料が崩れ、混在してしまってな。仕方がないので、手近なところにあった論纂をすべて持ってきた」
「だっさ」
メリンダは「まったく」とこぼしながら、机に積まれた書物をあらためる。
「魔法師団の……団長さんなのですか?」
ドリスは尖塔を見上げるように首を上向け、おずおずと問いかけた。
「似合わないな」
「え?」
「悪魔の娘というより、黒ウサギだろう」
そう言って、団長はドリスの左右に結い上げた黒髪の片方を無造作に手に取った。
「はあ」
(ウサギの姿をした悪魔がいたら、なごむでしょうね。……使い魔もいいわね。黒マントをまとったいかめしいお顔の老紳士然とした悪魔さんの肩に、ちょこんと乗っかる黒ウサギとか)
ぼんやりと想像をめぐらせていると、ドリスの髪に触れる手を何かがやんわりと押しのけた。
「不用意に触れないでいただきたい。ジャレッド・コール団長」
ドリスの腕を引き寄せたのはセレストだった。金色の柳眉を寄せて、団長に鋭い視線を投げかけている。
「この娘は貴殿の愛玩動物か、王太子?」
「!? ち……っ、が……」
セレストの顔が、なぜか茹でた海老のように赤く染まった。
「お風邪ですか、殿下?」
「お兄様は心の風邪を患っていらっしゃいますのよ、ドリス」
薄桃色の鼻と白銀色の髭を上下に動かしながら、ユーフェミアが楽しげな口調で返す。
「まあ、大変。お薬は飲まれましたか、殿下?」
「メリンダ様、魔法師団ではバカにつける薬の研究開発はしていませんの?」
「そんなもんあったら、真っ先にうちの団長に処方してるさ。……っと、あったあった」
メリンダは、書物の山から一冊の紐綴じの本を発掘した。枯草色の表紙はかなりの年月を経ているようで、ところどころ茶色く変色し、端が少し破れている。
「我が宮廷魔法師団は、日々、魔法に関するありとあらゆる事象について研究および記録をしているんだ。ちなみにこれは、二百年くらい前の記録だねー。ここ、見てごらん」
メリンダは栞の挟まれたページを開いて手渡した。両手で捧げ持つように受け取ったドリスは、目に飛び込んできた見出しの文字に、思わず書物を取り落としそうになった。
「『凍れる魔力を融かすもの』……?」
ドリスの横から書物を覗き込んできたセレストが、見出しを読みあげた。
「魔力凍結の、解呪方法だよ」
メリンダの唇から発せられた言葉の一つ一つが、ドリスの心臓を強く叩いた。細かな文字で書き記されている本文を読むより先に、メリンダが要点を簡潔に説明してくれた。
「結論から言うと、相思相愛の相手とキスすれば呪いは解ける」
メリンダの説明は簡潔すぎた。
「へ?」と、間の抜けた声をあげたのはドリス。
「あらまあ!」と、青色の瞳を爛々と輝かせたのはユーフェミア。
ジャレッドは、余分に持ってきてしまった書物をめくりながら指先で眼鏡を上下させている。
セレストはというと、顎がはずれそうなほどに口を開け絶句していた。
「もう、ベタすぎて笑っちゃうよねー! この記録が見つかった時なんて、みんなして抱腹絶倒だったよー。笑うどころか、目が死んでるのが一人いたけど」
あっはははは、と笑うメリンダに、ユーフェミアが「どなたですの?」と問いかける。
「ダレンだよ。一人娘の貞操の危機っしょ? 『不敬罪などくそくらえ』って言いながら、禁呪の文献を物色してたよ」
「あらあら、不敬罪を通り越して謀反の危機ですわね」
物々しい台詞とは裏腹に笑いをこらえている様子のユーフェミアは、大口を開けたまま唖然としているセレストを横目で見た。
ドリスは書物に視線を落とし、文字がところどころかすれている文面を黙読した。黄ばんだ羊皮紙に刻まれた記録は、メリンダがざっくりと簡潔に説明してくれたとおりの内容だった。
魔力凍結は、書いて字のごとく魔力を氷のように凝固させる呪いである。
呪いを解く鍵は、「氷」を融かす「熱」。
その熱とは身を焦がすほどの恋心であり、互いの呼吸器官から注ぎ込む、とある。
「つまるところ、氷にお湯をかけて融かすようなものですか?」
「身も蓋もないけど、まあそういうことだね」
色気もへったくれもないドリスの解釈に、メリンダは肩をそびやかして苦笑した。
「下手をすれば命を落とす、というのはどういう意味だ?」
落ち着きを取り戻したセレストが尋ねる。
「相思相愛ってのが重要なのさ。互いに想いの重なったキスは、魔力凍結の呪いを融かす。けど、心が交わらない状態で唇を重ねたら……」
メリンダは表情を引き締め、右の親指で自分の左胸を突いた。
「暴発した魔力が拒絶反応を起こし、二人の身体を焼きつくす」
「身を焦がすほどの恋心……。文字どおり、身も心も黒焦げということですの……?」
シャレになりませんわ、とユーフェミアはつぶやき、はっとしたように目を見開いた。純白の毛に包まれた四肢で机を蹴り、メリンダの腕に飛び込む。
「もしもですわよ? 先ほど、お兄様がドリスに口づけたらどうなっていましたの?」
「あたしの見立てだと、半々の確率で呪いが解けるか……黒焦げ、かな?」
「冗談じゃありませんわ!」
声をひそめて何かを囁き合っているかと思えば、急にユーフェミアが毛を逆立てて怒鳴りだした。
「大丈夫だって。殿下にそんな度胸ないだろ?」
「それはそうですけれど!」
前脚から爪を光らせるユーフェミアを押さえつけながら、メリンダはドリスに問いかけた。
「ねえ、ドリス。立ち入ったこと訊くけど、君は今、好きな人いる?」
「いいえ」
ドリスは首を横に振った。左右に結い上げた黒髪も合わせて揺れる。
この時、ユーフェミアの瞳が何か疑念を持つように光ったことに、ドリスは気づかなかった。
「昨夜、メリンダさんが『解呪は難しい』とおっしゃった意味がわかりました」
ドリスには、互いに想い合う相手などいない。初めての片想いも、手放したばかりだ。
「今は……わたしの呪いよりも先に、姫様のお姿を元に戻す方法を考えませんか?」
精一杯の笑みを浮かべてドリスが提案すると、それまで書物の山とたわむれていたジャレッドが音をたてて本を閉じた。
「それはおそらく、魔力凍結の解呪よりも難しい」
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