3
そもそも、自分はどうしてユーフェミアに呪いをかけてしまったのだろう。
無意識とはいえ、会ったばかりの相手を呪うだなんて考えただけでも背筋が冷える。
「ドリス」
頭上から耳に馴染んだ声が降ってきた。顔を上げると、宗教画の天使を思わせる美しい少年がドリスを見下ろしていた。いつものような鋭い眼差しではなく、相手を気遣うような優しい目。罪悪感に苛まれ、ドリスは胸を引き絞られる思いだった。
「この塔は、特殊な結界で強化されていて、幹部クラスの魔法使いが本気で
「……はあ」
言葉の意図が読み取れず、気の抜けた返事をすると、セレストは床に膝をついた。
「思いきり泣いても怒っても……大丈夫だ」
布でくるんだ
「そうですか」
無表情で一言告げると、ドリスは再び背を丸めて夜色のかたまりと化した。
「そうですかって……」
「わたしが泣いたりわめいたりしたところで、姫様の呪いは解けませんから」
呆れたような声を漏らすセレストに背を向けたまま、ドリスはぼそぼそと言った。
「……ありがとうございます、殿下」
さらに何か言い募ろうとしたセレストが、ドリスの背後で息を飲んだのが気配でわかった。
「本来なら、わたしは極刑に処される身です。殿下に怪我をさせてしまった前科だってあります……。なのに、わたしをかばってくださるどころか元気づけようとしてくださって……、本当に感謝しています」
「礼を言う気があるなら、こっちを向け」
たしかに、相手に背を向けたまま言葉だけ口にしても感謝の気持ちは伝わらない。ドリスは両膝をついて後ろを振り返った。床に片膝をつくセレストと視線が交わる。
晴れ渡る青空のような、もしくは遥か彼方に悠々とそびえる山のような、澄んだ空色の瞳はなぜか、ひどく不安げにドリスを見つめていた。まるで、すがるようにも見える眼差しに、ドリスの心臓が小さく跳ねた。
「ほら、言ってみろ」
「え……?」
気のせいだったのだろうか。セレストの目はいつもと同じ、針のように鋭く細められ、射抜くような視線でドリスを見ている。
「ありがとうございます、って言えよ」
「あ、ありがとう……ございます」
「聞こえない」
口をもごもごさせて紡いだ謝辞が気に入らなかったのか、セレストは耳に手を当ててそばだてる仕草を見せる。わざとらしく目までつむって。なんだか妙に気恥ずかしくなり、ドリスの声はますますかすれていく。
「あの……、少々近すぎるのですが。お顔が」
「聞こえないんだから仕方ないだろ」
嫌なら声を張れ、と続けるセレストに、ドリスは何も言い返せない。
早鐘のように鳴り響く鼓動を全身で聞きながら、胸に手を当てて呼吸を整える。
(どうして、こんなに緊張するのかしら?)
幼い頃に怪我をさせてしまった負い目から、ドリスはセレストと距離を置いている。
名前を呼ぶことさえおこがましいと自分を戒めるドリスにかまわず、セレストは距離を詰めてくる。
また、いつかのように彼を傷つけてしまうのではと、ドリスはいつも身構えていた。
同じ緊張でも、今はどこか違う。
胸の奥を羽箒でくすぐられているようで、なんだかもぞもぞざわざわして落ち着かない。
「あの、殿下……」
お腹に力を入れてみたものの、普段から声を張ることに慣れていないので、ドリスはほんの少しだけ身を乗り出して囁くように呼びかけた。
セレストは耳に手を添えたまま黙っている。まるで、おとぎ話の続きを待つ小さな子どものように。
「ありがとうございます……」
「何が?」
「えっ!?」
まさか、訊き返されるとは思わなかった。おろおろしていると、前髪の間から覗く薄桃色の
「間抜けな顔だな」
吊り上がり気味の目を細め、セレストはふっと微笑んだ。
二人の間を風が吹き抜けたような気がした。
昔よく遊んだ、緑と花の香りに満ちたバラ園が脳裏に浮かんだ。
「ドリス」
「は、はい」
幼い頃よりもずっと低い、大人びた声。聞き慣れているはずなのに、妙にどぎまぎしてしまうのはなぜだろう。
(……はっ、これはいわゆる
「……危険だわ」
またも心の声が漏れてしまっていることに気づかないまま、ドリスは後ろへ身を退いた。しかし、もともと隅っこにいたので当然、退路などない。
「誰が危険だって?」
セレストが、剣呑な目つきでドリスを睨む。顔を挟み込むように壁に両手をつかれては、ムカデのように這って逃げることもできない。
「またお得意の妄想か? 聞かせろよ、何を考えてた?」
「で、殿下には関係ありません、これっぽっちも」
「嘘つけ」
どこにも逃げ場がないドリスは、蛇に睨まれた蛙のごとく身を縮こまらせた。
「お前のことだ。
それはとても楽しそう。思いがけないネタを得られて、ドリスは口元をわずかにゆるませた。
「……うわっ!」
突然、セレストが声をあげて飛びのいた。
彼の視線をたどると、いつからそこにいたのか、メリンダが幼さの残るつぶらな目を眇めてしゃがみ込んでいた。起伏の少ないなだらかな胸に、白猫のユーフェミアを抱えている。
「じれったい」
「まったくですわ。幼児じゃあるまいし」
「何がじれったいのですか?」
ドリスが問いかけると、メリンダとユーフェミアはそろって「はっ」と鼻で笑った。
メリンダは、「よっこらせ」と年寄りじみたかけ声とともに立ち上がった。つられてドリスも立ち上がる。
「んー、今なら雰囲気に流されてうまいこと行く気がしたんだけどなー」
「何がでしょう?」
「解呪」
すなわち、呪いを解き放つこと。
つい今しがたのセレストとの会話の中で、それらしい単語が出てきただろうか。
ドリスは、離れたところで膝の埃を払うセレストに視線で問いかける。しかし、当然ながら彼も不思議そうな顔で首を横に振るだけだった。
「ドリスの呪いを解く手がかりが見つかりましたの!?」
「見つかったっていうか、もうだいぶ前に見つけたんだけどさ」
メリンダは、ユーフェミアをオーク材の机へと恭しく下ろし、咳払いを一つした。
「我々魔法師団が、魔力凍結の解呪方法を探しあてたのが、今から半年前」
「半年? なぜ、すぐに報告しない!?」
声を荒らげたのはセレストだ。物凄い剣幕でメリンダに詰め寄るものだから、彼が乱暴に胸倉をつかむのではと、ドリスは内心はらはらした。紳士としての理性が働いたのか、セレストはメリンダの一歩前で立ち止まった。ドリスはひそかに胸を撫で下ろす。
「昨夜も言っただろ? ちょっとばかし難しいって。一歩間違えると、命を落としかねない」
その場にいた誰もが息を飲んだ。
「そんなに危険な解呪方法なのか?」
「容易でもあり、難解でもある」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます